伝記
クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカは、共和政ローマ末期の政治家であり軍人である。生年は紀元前100年または紀元前98年頃、あるいは紀元前95年頃ともいわれ、没年は紀元前46年である。ローマ内戦ではグナエウス・ポンペイウスを中心とする元老院派の中心的な役割を果たし、古代ローマで最後に活躍した「スキピオ」とも称される。
もとは貴族のコルネリウス・スキピオ家の出で、当初は父と同じプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカと名乗っていた。祖父は紀元前111年の執政官で、曾祖父は紀元前133年にティベリウス・グラックスを殺害した人物であり、さらにスキピオ・アフリカヌスの血も引いている。母リキニアは執政官を出したリキニウス・クラッスス家の娘で、名門の出であった。父は法務官に選ばれて間もなく亡くなり、二人の息子と二人の娘が残された。弟は祖父クラッススの養子となったが、歴史にはほとんど名を残さなかった。成人後、父の又従兄弟にあたる紀元前80年の執政官で最高神祇官のクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスの遺言によって養子となり、メテッルスの名を名乗るようになった。ただし、養父の生前に子であったわけではなく、名と遺産を受け継ぐ形の養子縁組だったと論じられている。
私生活では、紀元前77年の執政官の娘アエミリア・レピダと結婚した。この女性はもともとマルクス・ポルキウス・カトと婚約していたため、カトから激しい批判を浴びた。二人の間の娘コルネリアは、政略結婚の材料となった。最初はマルクス・リキニウス・クラッススの息子プブリウスに嫁いだが、プブリウスがカルラエの戦いで死ぬと、ポンペイウスの妻として再婚した。ポンペイウスとは30歳以上の年の差があったが、仲は睦まじかったとされる。この結婚は、ポンペイウスがカエサルとの同盟を断ち、元老院派の旗頭として立つ動きの一つでもあった。公職では、若い頃の紀元前80年にキケロが関わった弁護団に名が挙がっている。紀元前59年に護民官を務めたとされ、紀元前57年には養父をしのぶ葬送競技を催した記録があり、同じ頃には神祇官団の一員でもあった。紀元前55年頃に法務官となり、紀元前53年には短期間の空位期間統治官を務めた。紀元前52年にはポンペイウスとともに執政官となった。保守的な貴族であり、クラッススの死までは三頭政治に対する象徴的な対抗勢力であったといわれる。ローマの歴史家ロナルド・サイムは、彼を「ローマ史で重みのあった最後のスキピオ」と評した。
紀元前49年1月、カエサルが軍を率いてローマへ侵攻して内戦が始まる。この年、スキピオは元老院にカエサルへの最後通告を出させ、戦争を避けられなくしたとされる。その後、シリア属州の総督として、シリアやアシアで戦争に備えて食糧、軍資金、兵士を調達したが、その徴発は過酷だったとされる。紀元前48年8月のファルサルスの戦いでは一軍を率いて戦ったが、敗れた。
敗戦後は同盟者のヌミディア王ユバ1世が勢力を持つ北アフリカのウティカへ逃れ、同じ元老院派のカトらと再起を図った。しかし紀元前46年4月のタプススの戦いで再びカエサル派に敗れた。この戦いでは全軍の総指揮を執っていた。ヒスパニアへ逃れようとしたが、ヒッポレギウス近郊で殺害されたとされる。一方で、追い詰められて自ら命を絶ち、その毅然とした態度を後に小セネカが称えたと伝えられてもいる。
同じ年に亡くなった人物
- ウェルキンゲトリクス (紀元前46年没)
- Licinius Macer Calvus (紀元前46)
- ルキウス・アフラニウス (紀元前46年没)
- Achillas (紀元前46)
- ファウストゥス・コルネリウス・スッラ (紀元前46年没)
同じ地域に関係する人物
- ゴットフリート・ゼンパー (1879年没)
- Maurizio Mannelli (2014年没)
- ディオニュシウス (ローマ教皇) (268年没)
- ベルナルド・パスクィーニ (1710年没)
- リキニアヌス (250年没)