HISTORICAL PERSON · 紀元前46年没

ルキウス・アフラニウス

無名の家の出ながら、ポンペイウスの献身的な支持者として出世し、金を投じた選挙で紀元前60年に執政官となった。ヒスパニアでセルトリウスと戦い、内戦でもポンペイウス派としてヒスパニアの軍を指揮した。

生涯
紀元前46年没
死亡地
チュニジア共和国(モナスティル県 / タプスス)
出生地
イタリア共和国(コッシニャーノ)
出典
世界地図
チュニジア共和国(モナスティル県)

伝記

ルキウス・アフラニウスは、紀元前1世紀前半から中ごろの共和政ローマの政治家・軍人で、紀元前60年に執政官を務めた。生年は不明で、没年は紀元前46年である。無名の平民の家柄であるアフラニウス氏の出で、父の個人名がアウルスであることは分かっているが、最下級の出自だった。キケロは友人アッティクスへの書簡で、彼を単に「アウルスの息子」と呼ぶことが多く、祖父の名すら分からず著名な先祖もいないことを嘲っていた可能性がある。

アフラニウスは生涯を通じてポンペイウスの献身的な支持者であり、その出世はポンペイウスのおかげであった。史料への最初の登場は紀元前75年で、ポンペイウス軍の副司令官(レガトゥス)としてヒスパニアでマリウス派のセルトリウスと戦った。スクロ川の戦いでは左翼を指揮し、一時は敵を圧倒して陣地に侵入したが、のちにセルトリウスが状況を立て直した。結果は引き分けと考えられている。その後、カラグリスを長く包囲したのち攻撃して完全に破壊した。のちに法務官と属州総督を務め、凱旋式も行ったとされるが、時期は定かでなく、法務官は紀元前71年、総督は紀元前70年から紀元前69年と考えられている。第三次ミトリダテス戦争が起こると、再びポンペイウス軍のレガトゥスとなり、紀元前66年から紀元前65年の冬にアルメニアに残された。コルデュエネ地方を占領し、ポンペイウスとともに砂漠を越えてシリアへ進み、アマヌス山脈ではナバテア軍を破った。

紀元前61年にイタリアへ戻ったとき、ポンペイウスは退役軍人への土地分配や東方での自分の指示の遵守のため、子飼いの人物を高い地位に就ける必要があった。そこで多額の資金を投じてアフラニウスを執政官選挙に立てた。プルタルコスによれば、ポンペイウスは各トリブスに金をばらまいて評判を落としたという。元老院議員の多数が反対したが、アフラニウスは当選した。同僚の執政官はポンペイウスの義兄メテッルス・ケレルだったが、ケレルはポンペイウスの敵の側に回り、ポンペイウスはカエサルやクラッススと同盟せざるをえなくなった。紀元前57年9月にはポンペイウスにローマへの穀物供給の特別権限を与える提案を支持し、紀元前55年にはヒスパニア・キテリオルをポンペイウスの代理として統治した。

紀元前49年1月に内戦が始まったころ、アフラニウスはヒスパニア・キテリオルで3個軍団を指揮していた。マルクス・ペトレイウスと合流してイレルダ近くに堅固な陣地を築いたが、現地部族が次々とカエサル側に寝返ったため、ケルティベリアへの撤退を決めた。しかしカエサル軍に包囲され、降伏に同意した。条件は全軍の解散だけであった。それでも戦いをやめず、東のデュッラキウムでポンペイウスと合流したが、イレルダでの降伏を反逆だと非難された。デュッラキウムでの勝利のあと、イタリアに戻って艦隊でカエサル軍を封鎖するよう助言したが、受け入れられなかった。ファルサルスの戦いでは野営地を守る軍を指揮し、敗北後はカトーとともにアフリカ属州に逃れ、スキピオの下で戦いを続けた。

紀元前46年4月のタプススの戦いでも敗れたあと、ファウストゥス・コルネリウス・スッラとともにマウレタニア経由でヒスパニアに向かい、旧支持者を集めようとした。しかし、2,500人の分遣隊はカエサル派のシッティウスの待ち伏せでほぼ全滅し、アフラニウスは捕らえられた。数日後、兵士の反乱が起こり、アフラニウスはスッラとともに殺された。スエトニウスとフロルスは、これはカエサルの命令による処刑だったとする。息子が一人おり、ヒスパニアで戦っている。

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