伝記
トルクァート・タッソは、16世紀イタリアの叙事詩人である。1544年3月11日にソレントで生まれ、1595年4月25日にローマで没した。代表作は十字軍を題材にした叙事詩『解放されたエルサレム』で、晩年は精神の病に苦しみ、教皇が彼に桂冠詩人の称号を授けようとした矢先に世を去った。
父ベルナルド・タッソは、名の知られた叙情詩人であり叙事詩人で、長く最後のサレルノ公フェッランテ・サンセヴェリーノの秘書を務めた。母ポルツィアはトスカーナの貴族の出である。サレルノ公がナポリを治めるスペイン総督と争って追放され、領地を奪われると、ベルナルドも主君に従って亡命し、皇帝カール5世に対する反逆者として財産を差し押さえられた。この処分は9歳の息子トルクァートにも及んだ。ナポリではイエズス会の学院で1552年まで学び、ギリシア語とラテン語に通じ、散文や詩をすでに書いた早熟さと信仰の篤さで、教師たちを驚かせたという。はじめはフランスで暮らしたが、のちにイタリアに戻り、父がローマの友人に預けて学業を続けさせた。1556年に母がナポリで不審な状況のもと亡くなり、家の暮らしはさらに苦しくなった。1557年、父がウルビーノの宮廷に招かれると、息子もそれに従い、世継ぎの王子の遊び相手、また学友となった。その後ヴェネツィアやパドヴァに移り、パドヴァ大学で法律を学んだが、やがてこれを断念して哲学と詩に向かった。1562年、叙事詩『リナルド』を書き上げて出版した。その独創性から、最も将来を期待される詩人と評された。
ボローニャでさらに1年学んだ後、1565年にフェラーラの枢機卿ルイージ・デステに仕えて宮廷に入り、叙事詩についての持論を『詩作論』にまとめた。1565年から1570年は、1569年の父の死の悲しみはあったものの、最も幸福な時期だったらしい。宮廷の女性たちに恋し、多くの詩を捧げた。1570年か1571年頃には枢機卿に従ってフランスに赴き、詩人ロンサールに会った。しかし率直すぎる性格が災いして枢機卿の寵を失い、その後フランスを去ってフェラーラ公アルフォンソ2世に仕えた。公の姉妹の王女たちの庇護を受け、公の妹レオノーラを恋してソネットを多く捧げた。1573年に牧歌劇『アミンタ』を発表し、これは以後2世紀のオペラやカンタータに影響を与えたとされる。続いて『解放されたエルサレム』を書き上げた。宮廷で大いに名声を博し、多くの模倣者が出た。
しかし、『解放されたエルサレム』の内容が異端と見られることを恐れ、一部を書き改めたことに心を痛め、精神に異常を来した。1577年に公によって幽閉され、一度脱出したものの、再び聖アンナ病院に収容されて、1579年から1586年までの7年間を過ごした。退院後はマントヴァ公ヴィンチェンツォのもとに赴いたが、さらに流浪を続けながら詩作した。1586年に『弁明』、1588年に戯曲『トルリスモンド』、1592年に宗教詩『オリーヴ山』、1593年に『キリストの涙』、1594年に『英雄詩に関する論述』を書いた。その数奇な生涯は、ゲーテをはじめ多くの作家の題材となり、ルソーはその詩を称賛し、シャトーブリアンは回想録で長く論じた。
同じ年に亡くなった人物
- フェルディナント2世 (オーストリア大公) (1595年没)
- シャルル=エマニュエル (1595年没)
- Stefan Razvan (1595年)
- ロバート・サウスウェル (1595年没)
- ジョン・ホーキンス (1595年没)
同じ地域に関係する人物
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- Flavio Chigi (1693年没)
- ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ (1696年没)