伝記
ベネディクト16世は、2005年4月19日から2013年2月28日に辞任するまでローマ教皇を務め、バチカン市国の君主でもあった人物である。本名はヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガーといい、1927年4月16日、ドイツのバイエルン州マルクトル・アム・インで、父ヨーゼフと母マリアの次男として生まれた。父は警察官で、母は食堂の手伝いをして家計を支えた。父はナチスに強い嫌悪感を抱いていたという。兄は後に司祭となり、姉マリアは未婚のまま家族と暮らして生活面でヨーゼフを支えたとされる。親族によれば、幼いころから司祭になることを夢見ていた。
1939年に第二次世界大戦が始まると、14歳でヒトラーユーゲントに加入した。当時は10歳から18歳までの青少年に加入が義務づけられていた。のちに動員され、いったん自宅へ戻れたものの、戦況の悪化で再び動員されて歩兵としての訓練を受けた。戦後は兄ゲオルクとともにトラウンシュタインの神学校で哲学と神学を学び、ミュンヘン大学でも学んだ。1951年6月29日に司祭に叙階され、1953年に聖アウグスティヌスの教会論についての論文で神学博士号を得た。1957年には聖ボナヴェントゥラに関する論文で大学教授資格を取り、1959年からボン大学で教え、のちにミュンヘン大学、テュービンゲン大学でも教壇に立った。1958年、31歳で正教授に任命されたともされ、1950年代後半には神学者として高く評価された。
第2バチカン公会議ではケルン大司教フリングス枢機卿の神学顧問を務め、公会議文書「キリスト教以外の諸宗教に関する教会の態度についての宣言」の作成に貢献した。1972年には仲間の神学者らと神学誌『コムニオ』を創刊し、同誌は今では17言語で発行されている。1977年にミュンヘン・フライジングの大司教となり、モットーに「真理の協働者」を選んだ。同年、パウロ6世から枢機卿に叙任された。1981年11月には教皇ヨハネ・パウロ2世の下で教理省の長官に就き、教皇に選ばれるまでその職にあった。1993年に司教枢機卿、1998年に次席枢機卿、2002年に首席枢機卿となった。分裂の道を進もうとしたルフェーブル大司教には、破門されうると警告したが、大司教は聞き入れず、聖ピオ十世会を創設した。
ヨハネ・パウロ2世の健康が悪化すると、側近のラッツィンガーは有力な後継候補とみなされた。2005年4月19日、コンクラーベは2日目に彼を選出し、78歳の新教皇はベネディクト16世と名乗った。この名は、第一次世界大戦期に世界平和を願ったベネディクトゥス15世への敬意と、ベネディクト会の創立者ヌルシアのベネディクトゥスにちなむと本人が説明している。在位中は世俗化に対抗してキリスト教の基本的価値への回帰を唱え、相対主義を21世紀の中心的な問題とみなした。2007年には自発文書で旧典礼のトリエント・ミサの使用を広げ、2009年には回勅『真理に根ざした愛』で経済活動は人間の尊厳と共通善に奉仕すべきだと説いた。伝統的な法衣の再導入などから「美学の法王」とも呼ばれた。2006年のレーゲンスブルク大学での講演では、ビザンツ皇帝の言葉の引用がイスラム世界の強い反発を招いたが、暴力と宗教を結びつける意図はなかったと述べた。
2013年2月11日、高齢による心身の体力不足を理由に辞任を表明した。教皇の自発的な辞任は1294年のケレスティヌス5世以来であった。同年3月13日にフランシスコが後を継ぎ、以後は名誉教皇と称されてバチカン内の修道院に暮らし、2022年12月31日に亡くなった。
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