HISTORICAL PERSON · 1274年没

ナスィールッディーン・トゥースィー

ペルシア人のシーア派神学者で、哲学者・数学者・天文学者。13世紀のイスラーム世界を代表する学者とされ、逍遥学派の中興の祖と目される。

生涯
1274年没
死亡地
イラク共和国(バグダード県 / カージマイン・モスク)
出生地
イラン共和国(トゥース)
出典
世界地図
イラク共和国(バグダード県)

伝記

ナスィールッディーン・トゥースィーは、十三世紀のイスラーム世界を代表する学者の一人で、シーア派の神学者、哲学者、数学者、天文学者である。一二〇一年二月ごろ、ホラーサーン地方のトゥースに生まれ、一二七四年六月二十六日に没した。生年月日は二月一七日ともいわれ、一八日ともいわれる。トゥースィーとはトゥース出身者を指す呼称で、「学識者トゥースィー」や「人類の師」などの尊称でも呼ばれた。生涯を知る手がかりには、ペルシア語で書かれた短い書簡形式の自伝が今に伝わっている。

父は十二イマーム派の法学者として尊敬されたワジーフッディーンで、本名も父と同じムハンマドという。自伝によれば、幼いころ郷里で父や母方の伯父からアラビア語学、クルアーン、ハディース学を学び、父の友人だったカマールッディーンから数学を教わった。青年期にはニーシャープールに移り、イブン・スィーナーの系統に属する逍遥学派のアリストテレス哲学、論理学、医学をファリードゥッディーンらから学び、数学や法学の師にも就いた。詩学については神秘主義者の詩人アッタールに学んだとも言われる。二十二歳のとき、これらの学問を修めた証しとしてイジャーザ(免許状)を授かったという。

一二二〇年にチンギス・ハン率いるモンゴル軍が侵攻し、翌年にはニーシャープールが徹底的に破壊された。トゥースィーは戦乱を避け、多くの学者を保護していたクヒスターンのニザール派の太守ナースィルッディーン・ムフタシャムの宮廷に身を寄せたと考えられている。そこで人間道徳、家族、政治の倫理を論じた『ナースィルの倫理学』を献呈し、この書は二十年後に序論と結論を改めて改訂された。全三部で、第一部は倫理的な美徳を、続く二部は経済と政治を論じ、実践に重きを置いたため長く読み継がれたという。さらに『服従の花園』などイスマーイール派の教義に関わる書物も著した。のちにアラムートのニザール派の教主のもとに連行されたことは知られているが、理由の伝えは分かれる。ある歴史書は、アッバース朝のカリフに頌詩を送って仕えようとしたことが太守の怒りを買ったとし、別の伝承は、教主が太守の庇護をうらやみ、拒んだトゥースィーを脅して連れて来させたとする。いずれにせよ本意ではなかったらしく、一二四六年の『諸指示の注解』には苦境からの救いを求める祈りが記されている。

モンゴルのフレグがイランを征服しに来たときには、アラムート近くのマイムーン・ディズという城塞に幽閉されていたことが知られる。のちにフレグのもとで働くようになった。一二五九年にはフレグの後援でマラーガに天文台が建てられ、ウルディーやクトブッディーン・シーラーズィーらが学んだ。一二六四年ごろには、宰相ジュワイニーの求めでスーフィーの手引書を書き、これが最後の倫理思想書になった。晩年は十二イマーム派の学者クーナウィーと書簡を交わし、一つの原因から複数のものが生じる仕方について、イブン・スィーナーを擁護する立場で論じた。

天文学では、一二七二年に『イルハン天文表』を作り、二つの円運動から直線状の動きを得る「トゥースィーの対円」という惑星モデルを考え、プトレマイオスの体系の難点であったエカントを除いたとされる。分点の歳差が五十一秒であることも計算した。月のクレーターに名が付けられ、イランの工科大学にもその名が冠されている。地動説が現れるまで、彼の宇宙の体系は最も進んでいたとされる。

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