伝記
エンリケ1世は、ナバラ王であり、シャンパーニュ伯としてはアンリ3世にあたる人物である。肥満王の通称で知られる。ナバラ王テオバルド1世と妃マルグリット・ド・ブルボンの次男で、生年は1244年ごろとも1249年12月3日ともいわれる。父はエンリケが3歳のとき、母は9歳のときに亡くなったとされ、兄のテオバルド2世が弟の後見を引き受けた。
1263年12月3日、14歳になった日に、エンリケは兄の後見を離れた。兄は年5000リーヴルの収入を割り当て、ロスネー伯の称号も与えた。1265年には兄が、ベアルン子爵ガストン7世の娘コンスタンスとの縁談を進め、12月11日に婚約の取り決めが結ばれたが、1267年2月にコンスタンスはイングランド王の甥と婚約した。エンリケがバス・ナバラのラカラ家の女性との結婚を強く望んでいたことが、破談の原因だったらしい。エンリケは1266年にガスコーニュでの戦いに加わり、5月から10月にかけて、ピレネー山脈の北側にあたるサン・ジャン・ピエ・ド・ポールなどの地を転々とした。1267年にナバラへ入ると兄と不仲になり、各地の有力な町の支持を求めて兄の利益に逆らう動きをした。1269年6月24日、兄とフランス王の同意を得て、教皇の求めどおり、ルイ9世の弟アルトワ伯ロベール1世の娘ブランシュ・ダルトワと結婚した。
兄テオバルド2世は、チュニス十字軍に出た際に命を落とした。それまでにもエンリケは、兄の不在のあいだ何度かナバラの摂政をつとめている。兄が子のないまま1270年12月に没すると、エンリケは王位と、シャンパーニュ伯領、ブリー伯領を継いだ。ただし即位の布告は翌1271年3月まで出されず、3月1日の叙任の際にナバラの特権を守る誓いを立てた。司教や聖職者、ナバラ各地の町に誓約の文書を与え、12年間は通貨を変えず、生涯に鋳造する貨幣は一種類だけにするという約束も含まれていた。パンプローナ、トゥデラ、エステリャなどの町に特権が与えられた記録が残る。その後は主な町を巡ったのち、フランスへ渡って伯としての叙任を受け、家臣の臣従を受け、フランス王フィリップ3世に封土の臣従礼をとった。約5か月でこれを終え、パンプローナへ戻った。
エンリケは、ナバレリア地区がサン・セルニンとサン・ニコラスの二つの町との結合から離れることを認めた。ナバレリア側が、サン・セルニン地区に対する要塞を築くことの許可と引き換えに、3万サンチェの支払いを申し出たためである。これがのちの1276年のナバレリア戦争のきっかけになったとする見方がある。1272年9月25日には、まだ2歳ほどの長男テオバルドと、カスティーリャ王アルフォンソ10世の娘ビオランテの縁組が取り決められた。エンリケの戴冠式が行われたのは、1273年5月になってからである。長男のテオバルド3世は、1273年にエステリャの城から落ちて亡くなった。
1274年7月22日、エンリケはパンプローナの司教館で没した。年代記作者は、肥満のために息がつまって死んだと記している。治世は短かったが、高潔で有能な君主だったといわれる。幼い娘フアナ1世が王位を継ぎ、母ブランカが後見についた。フアナは1284年にフランス王太子フィリップと結婚し、翌年のフィリップ4世の即位以後、半世紀ほどナバラとフランスは同君連合となった。エンリケの死で、シャンパーニュ・ナバラ系ブロワ家の男系は絶えた。ダンテの『神曲』では、エンリケは13世紀ヨーロッパの君主たちとともに、煉獄の門の外に登場する。
同じ年に亡くなった人物
- 元宗 (高麗王) (1274年没)
- ボナヴェントゥラ (1274年没)
- 度宗 (1274年没)
- 宗尊親王 (1274年没)
- ロベール・ド・ソルボン (1274年没)
同じ地域に関係する人物
- チェーザレ・ボルジア (1507年没)
- サンチャ・デ・カスティーリャ (ナバラ王妃) (1179年没)
- バルタサル・アルベニス (1978年没)
- パスクアル・マドス (1870年没)
- フアン (バルセロナ伯) (1993年没)