伝記
イブン・ナディームは、10世紀のバグダードで書籍商として活動し、当時のバグダードにあったほとんどすべての書籍の目録『フィフリスト』を著した人物である。本名はムハンマド・ブン・イスハーク、クンヤはアブル・ファラジュ、ニスバは「バグダーディー」(バグダード生まれ)である。「イブン・ナディーム」という呼び名は、伝統的に誤って用いられてきたものであり、本来は「ナディーム」と呼ぶべきだとされる。
呼び名の解釈には経緯がある。写本に伝わる「ワッラーク」(書籍商)という職業名と、「ナディーム」(呑み友達)という通り名が、父子のどちらを指すのかについて議論があった。前近代の文献のほとんどは、ナディームを父イスハークの通り名と解釈し、息子を「イブン・ナディーム」と呼んだ。現在の通説では、息子ムハンマドこそがナディームであり、父子ともにワッラークだったとされる。少なくとも父の代から、バグダードで大きな書店を営んでいたと推定されている。
生涯について確実にわかることは多くなく、情報源のほとんどは『フィフリスト』自体である。序文の記載から、ヒジュラ暦320年ごろ、西暦932年前後にバグダードで生まれたとされる。アッバース朝の文化尊重の政策が実り、出版文化が爛熟した時期にあたる。父のもとで書籍商の修業を積みながら、当代の学者のもとで学んだともいわれる。書店は学者、詩人、文化人が出会う場所だったようで、自身も書店で交流し直接教えを受けた人々として、イスラーム神学者で文法学者のスィーラーフィー、詩人アリー・ブン・ハールーン・ブン・ムナッジム、シリア正教会の哲学者ヤフヤー・ブン・アディー、哲学者マンティーキー・シジスターニーらの名を挙げている。マンティーキーを「先生」と呼んでいるため、師弟関係にあったと推定される。キリスト教徒の翻訳者イブン・ハンマールなど、スンナ派以外の人々との交流も多かった。
出自や信仰については諸説がある。ペルシア人だったとする説は確証こそないが根強い。『フィフリスト』という題の語がペルシア語で「一覧」の意であること、先イスラーム時代のペルシア文化に関する正確な知識が盛り込まれていることが根拠とされる。信仰では十二イマーム派のシーア派だったと推定されているが、当時のバグダードの知識人にはシーア派への共感が珍しくなかったとの指摘もある。合理主義的なムゥタズィラ派神学にも深い知識があり、幅広い視野をもつ寛容な知識人だったとされる。
『フィフリスト』の序文によれば、脱稿は西暦988年である。その際に「ローマ人の地にいる」と書いており、かつては小アジアにいた可能性も考えられたが、1899年に反論が出され、現在の通説では、バグダードのキリスト教徒居住区で脱稿したという意味に解釈されている。この書は3500人以上の人物に言及し、約6600点の書物を取り上げた。ただし、題名だけを記したものも含まれる。イスラーム諸学の書のほか、プラトンやアリストテレスなど古代ギリシア人の著作、のちに『千一夜物語』としてまとめられる物語群も載る。パフラヴィー語の文献やグノーシス主義関連の文献は原典が失われたため、きわめて貴重な記録となっている。ところどころに著者自身の見解も述べられ、当時の知的状況を知る手がかりである。10世紀までのイスラーム世界の学問の状況が比較的詳しくわかるのは、この書のおかげである。没年月日はヒジュラ暦380年シャアバーン月20日の水曜日とされ、西暦990年11月12日にあたる。ただし没年をヒジュラ暦385年、西暦995年ごろとする説もある。
同じ年に亡くなった人物
- サブク・ティギーン (990年代没)
- ハインリヒ・フォン・シュパイアー (990年代没)
- スムバト2世 (990年(推定))
- アブー・バクル・ムハンマド・カラーバーズィー (990年)
- アブー・ハーミド・サーガーニー (990年没)
同じ地域に関係する人物
- ムティー (974年没)
- Mahmud al-Alusi (1854年没)
- ムハンマド・タキー (835年没)
- シメオン・バル・サバエ (341年没)
- マスラマ・イブン・アブド・アル=マリク (738年没)