伝記
ラッバーン・バール・サウマは、13世紀のネストリウス派(景教)の僧で、イルハン朝の使節としてヨーロッパへ赴いた人物である。1220年代に、元朝の首都大都で生まれた。父シバンは大都で景教徒を管轄する役所の監察官を務めたウイグルの名門の出で、母ケヤムタは景教を信じていた。長く子に恵まれなかった夫妻が断食と祈りの末に授かった子であったため、「斎戒の子」を意味するバール・サウマと名づけられた。出身はウイグルともオングトともされる。
20歳か23歳で出家し、大主教マール・ゲオルギウスから剃髪を受け、7年間独房に籠ったのち、房山の洞窟に移り住んだ。その名声は広まって人々が説法を聞きに集まり、オングトの青年マルコスが弟子になった。やがてマルコスがエルサレム巡礼を強く望み、サウマも決意して、1275年から1277年ごろに二人で旅立った。東城(現在のフフホト)でオングト王家の歓待を受け、クビライから勅令と通行証を与えられたと考えられている。河西回廊から敦煌、ホータン、カシュガルを経て、中央アジアの戦乱のなかを進み、ホラーサーンでは盗賊に所持金と荷物を奪われた。バグダードを目指す途中のマラーガで、総主教の座にあったマール・デンハに会い、紹介状と案内役を与えられた。
バグダードで各地の景教寺院を巡ったのち、モースル近郊の聖ミカエル修道院に落ち着いた二人は、マール・デンハの求めでイルハン朝のアバカの元へ赴いた。だがシリア北部も黒海方面も治安が悪く、エルサレムへは行けないまま、巡礼を断念した。1279年、サウマは巡回総管大主教に、マルコスはヤバラーハーの名で中国北部の大主教に任じられた。1281年にマール・デンハが没すると、ヤバラーハーが後任の総主教に選ばれた。1282年にアバカの弟アフマド・テグデルがハンとなると、ネストリウス派は弾圧され、サウマとヤバラーハーは40日あまり宮廷に監禁された。アバカの子アルグンがハンに就くと、二人は祝福に訪れた。アルグンはマムルーク朝との戦いのために西欧のキリスト教国との連携を考え、ヤバラーハーは知見と言語力にすぐれたサウマを使者に推した。
1287年、サウマはアルグンの親書と贈物を携えて旅立った。コンスタンティノープルで東ローマ皇帝に歓迎され、途中のシチリア島の沖で火山の噴火を目撃し、ナポリではナポリ王カルロ2世と会い、6月23日から24日にかけてのナポリとアラゴンの海戦を目撃した。ローマでは教皇が没したあとで、枢機卿たちの質問に淀みなく答えて驚かせたが、軍事同盟への明確な返答は得られなかった。ジェノヴァでは選挙制に関心を示し、パリではフランス王フィリップ4世の盛大な歓迎を受けた。ボルドーではイングランド王エドワード1世の求めに応じ、ネストリウス派の方式で聖餐を行ったが、同盟への返答はなかった。1287年から1288年の冬はジェノヴァで過ごし、1288年2月に新教皇ニコラウス4世が選ばれると、ローマに招かれた。教皇はヤバラーハーを総主教、サウマを巡回大主教に任じ、旅費と贈物を与えて別れを告げたが、軍事同盟の回答はここでもなかった。
1288年にバグダードへ帰ったサウマは、1291年にアルグンが没して弟ガイハトゥが即位すると、マラーガに寺院の建立を願い出た。寺院は1293年に完成し、サウマはバグダードでヤバラーハーを補佐して、1294年1月10日に没した。教皇ニコラウス4世が中国へ派遣したモンテコルヴィーノの使節団には、サウマの勧めも一因にあったという。
同じ年に亡くなった人物
- サフィーユッディーン・ウルマウィー (1294年)
- Busiri (1294年没)
- クビライ (1294年没)
- ブルネット・ラティーニ (1294年)
- ルシア (トリポリ女伯) (1294年(推定))
同じ地域に関係する人物
- アッ=シャリーフ・アッ=ラディー (1016年没)
- アブ・ニダル (2002年没)
- イッズッディーン・サリーム (2004年没)
- カーディル (1031年没)
- ターイー (1003年没)