伝記
マニウス・アクィッリウスは、共和政ローマ後期の軍人・政治家である。アクィッリウス氏族の出身で、おそらく紀元前129年の同名の執政官の子とされる。紀元前101年に執政官を務め、第二次奴隷戦争を鎮圧した。晩年は小アジアでミトリダテス6世と戦って敗れ、紀元前88年に捕らえられて惨い最期を遂げた。ノーメンはアクィリウスとも表記される。
経歴の初めは、紀元前109年か108年に貨幣鋳造三人委員を務めたことである。このとき彼が鋳造したデナリウス銀貨には、太陽神ソルと月の女神ルナが描かれ、一族がこの信仰に関心をもっていたことがうかがえる。やがてガイウス・マリウスの忠実な部下として軍歴を重ねた。紀元前104年から102年にかけて、マリウスのキンブリ族・テウトニ族との戦いに副官として従った。紀元前103年、マリウスが4度目の執政官を狙う選挙運動でローマに戻っていたとき、アクィッリウスは、キンブリ族が攻め込めばすぐにマリウスと交代できるよう、軍の指揮を任された。
アクァエ・セクスティアエの戦いでは、マリウス軍の一員としてテウトニ族とアンブロネス族を破り、背後から襲って敵の不意を突いたと伝えられる。この勝利の名声を、のちの執政官選挙に生かした。紀元前101年、マリウスはこれまでの忠節に報いて自分の同僚の執政官にアクィッリウスを据えた。この年のローマは、シキリア(シチリア)属州の奴隷反乱による食糧不足に苦しんでおり、アクィッリウスがその鎮圧を任された。彼は反乱の首謀者の軍勢を完全に屈服させ、紀元前99年にローマで小凱旋式を挙行した。のちに孫が発行した貨幣には、この戦いの武勇が刻まれている。紀元前98年には、シキリアでの圧政をルキウス・フフィウスに告発された。確かな証拠はあったとされるが、99年の執政官マルクス・アントニウス・オラトルの弁護と、戦争での功績が考慮され、無罪となった。
紀元前90年、アクィッリウスは使節として小アジアに送られた。ポントス王ミトリダテス6世によって追われた、ビテュニア王ニコメデス4世を復位させるためである。目的は達したが、彼はさらにニコメデスをけしかけてポントス領を攻撃させた。これがミトリダテスの激しい反撃を招くことになり、紀元前88年(89年ともされる)に第一次ミトリダテス戦争が始まった。アクィッリウスは、小アジアにあった唯一の部隊である補助兵1個軍団を率いて西から進んだが、タッタ湖では10万のポントス歩兵が待ち構えているのを目にした。数で劣る彼は、やがてミトリダテスの軍に追われ、プロトスタキウム付近で敗れた。
アクィッリウスはイタリアへ逃げ帰ろうとし、レスボス島までたどり着いたが、ミュティレネの住民に捕らえられてミトリダテスに引き渡された。本土に送られると、ロバに乗せられてペルガモンまで引き回され、道中、アナトリアの人々に対する自分の罪を白状するよう強いられた。同名の父が属州総督としてペルガモンを治めたとき、重税を課して恨まれており、子も同じように税をむさぼると思われて、土地の人々に嫌われていたのである。最後はミトリダテスに、煮えたぎる金を口に流し込まれて処刑された。この処刑法は有名になり、信頼度の低い記録によれば、のちにパルティア人が、三頭政治の一角を占めローマで最も裕福な男といわれたマルクス・リキニウス・クラッススを処刑する際にも踏襲したという。
同じ年に亡くなった人物
- プトレマイオス10世 (紀元前88年没)
- クィントゥス・ポンペイウス・ルフス (紀元前88年没)
- アウルス・ポストゥミウス・アルビヌス (紀元前99年の執政官) (紀元前 88年)