伝記
プトレマイオス10世アレクサンドロス1世は、古代エジプトのプトレマイオス朝のファラオである。キプロス王としては紀元前114年から107年まで、エジプト王としては紀元前107年から死去する紀元前88年まで在位した。父はプトレマイオス8世フュスコン、母はクレオパトラ3世で、兄のプトレマイオス9世ラテュロスと王位を争った。生まれたときの名はアレクサンドロスだったとみられ、ここでは以下アレクサンドロスと呼ぶ。
王家は、紀元前180年に没したプトレマイオス5世の子たちの代から、きょうだいどうしの争いを繰り返していた。プトレマイオス8世は、兄のプトレマイオス6世や姉のクレオパトラ2世と王位をめぐって争い、のちにクレオパトラ2世の娘クレオパトラ3世を第二の妻に迎えた。この対立はクレオパトラ2世と、プトレマイオス8世・クレオパトラ3世の夫妻との内戦に発展した。二人の間には2人の息子と3人の娘が生まれ、長男がラテュロス、次男がアレクサンドロスで、アレクサンドロスは紀元前140年ごろの生まれとされる。古代の著作の多くはプトレマイオス・アレクサンドロスと呼ぶが、パピルスなどの公文書にはこの呼び名が現れない。
紀元前116年にプトレマイオス8世が没すると、クレオパトラ3世は夫の死後、共同統治者としてアレクサンドロスを指名しようとしたといわれる。ユスティヌスによれば、夫の遺言は、年長のラテュロスか年少のアレクサンドロスのどちらかを共同統治者に選ぶ権利をクレオパトラ3世に与えていた。しかしアレクサンドリアの市民が年長のラテュロスの擁立を求めたため、やむなくラテュロスを王とした。パウサニアスは、クレオパトラ3世がラテュロスをキプロスへ送るよう求めたのも、アレクサンドロスの即位に備えて兄を遠ざけるためだったとほのめかす。この話をもっともらしいとする歴史家もいれば、のちにクレオパトラ3世が作った話とみる者もいる。結局アレクサンドロスはキプロスに総督として送られ、紀元前114〜113年には自ら王を名のった。やがてクレオパトラ3世とラテュロスの対立が深まり、紀元前110年にはラテュロスがクレオパトラの暗殺を謀っているとして廃位され、アレクサンドロスが擁立された。しかしアレクサンドロス自身も母と対立するようになり、紀元前109年に母は再びラテュロスを復位させた。こうした混乱ののち、紀元前107年にアレクサンドロスがあらためて即位した。
その治世にも兄との争いは続いた。紀元前103年から102年にかけて、母とともにハスモン朝の領内でラテュロスと戦い、兄がエジプトへ侵入するのを防いだ。紀元前101年までは母とともに共同統治者としてプトレマイオス・フィロメトル・ソテルと称した。同年に母を殺害し、兄と和解して、その娘で姪にあたるベレニケ3世と結婚し、新しい妻を共同統治者とした。以後はプトレマイオス・フィラデルフォスと称した。紀元前91年にはエジプト人の蜂起により、南部の支配を失った。
紀元前88年、テーベで原住民の反乱が起こった。軍の維持費をまかなうため、アレクサンドロスはアレクサンドリアにあったアレクサンドロス大王の墓から財宝を奪った。これが臣民の反感を買い、人気のなかった王は、アレクサンドリアから追放されて逃げた。民衆は兄ラテュロスを呼び戻して王位につけた。アレクサンドロスはローマの助けを得て軍勢を整え、キプロスに攻め込んだが、殺害された。
同じ年に亡くなった人物
- マニウス・アクィッリウス (紀元前101年の執政官) (紀元前88年没)
- クィントゥス・ポンペイウス・ルフス (紀元前88年没)
- アウルス・ポストゥミウス・アルビヌス (紀元前99年の執政官) (紀元前 88年)
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