伝記
クィントゥス・ポンペイウス・ルフスは、紀元前88年に執政官(コンスル)を務めた共和政ローマの政務官である。生年は分からず、同じ紀元前88年に没した。平民のポンペイウス氏族の出身で、この氏族が歴史に登場するのは紀元前2世紀になってからである。氏族最初の執政官は紀元前141年のクィントゥス・ポンペイウスで、ルフスはその子だった可能性がある。キケロはポンペイウス家を「取るに足らない、あまり知られていない家系」と評しており、ルフスも先祖の功績に頼れない典型的な新人(ノウス・ホモ)だった。
ルフスが最初に記録に現れるのは紀元前100年末である。護民官サトゥルニヌスが殺害された後、護民官のカトとポンペイウスが、サトゥルニヌスに追放されていたメテッルス・ヌミディクスの追放を解く法案を出した。この「ポンペイウス」はルフスに間違いないと現代の研究者は考えている。法案は護民官フリウスの強硬な反対で実現しなかったが、ヌミディクスは最終的に帰国できた。この提案からルフスは門閥派(オプティマテス)とみなされる。紀元前91年には首都担当法務官(プラエトル・ウルバヌス)となり、護民官ドルススの改革を支持していたと考えられている。その年の活動で知られるのは、悪行を重ねたファビウス・アッロブロギクスの息子に、父の財産を使うことを禁じたことだけである。同盟市戦争が始まった翌紀元前90年には、ウァリウス法によってドルスス支持者への迫害が進み、ルフスも起訴された。結果は不明だが、おそらく無罪となった。
紀元前89年末の執政官選挙は、翌年のミトリダテス戦争の指揮権がかかっていたため、特に激しいものとなった。ルフスは同盟市戦争で活躍したスッラと組み、紀元前90年にはルフスの息子とスッラの娘を結婚させて同盟を固めていた。投票は紀元前88年の初めに行われ、ユリウス・カエサル・ストラボ・ウォピスクスの立候補をめぐって街頭衝突まで起きたが、結局ストラボが敗れ、スッラとルフスが当選した。ルフスと親しかった護民官スルキピウスはのちにルフスと決裂し、キケロの『友情について』もその破綻に触れている。その理由については歴史学上の論争があり、ドルススの政策の継続を拒まれたためとする説や、選挙前からマリウス派に転じていたとする説がある。
指揮はスッラが担当し、ルフスはローマに残った。しかしスルキピウスは、追放者の帰還や新市民の全トリブスへの登録などの法案を持ち出し、両執政官は反対して公務の停止を宣言した。スルキピウスの支持者が武装してフォルムに現れると暴動となり、ルフスの息子が殺された。ルフスは逃げて隠れ、スッラはマリウスの家に避難して妥協した。それでもスルキピウスはマリウスに指揮権を与える法案まで通した。これを知ったスッラは、ローマ人として史上初めてローマへ軍を向け、ルフスも加わった。ルフスは1個軍団を率いてコッリナ門を占領し、市街戦に勝利した。スルキピウスは殺害され、マリウスらは「国家の敵」とされた。
その後、北イタリアで同盟都市と戦っていたストラボの軍をルフスが引き継ぐことになった。背後にはスッラがいて、東方へ出発する前に、同盟者のルフスに強力な軍隊を持たせる狙いがあったとされる。ストラボはこの決定に不満だったが、辞任には同意した。一方、アフリカへ逃れたマリウスは軍を編成しており、ローマを攻撃する可能性があった。ルフスの手に軍隊があれば、ルフス自身を守り、ローマの秩序を保てるという判断も背景にあったとされる。ルフスの没年は紀元前88年である。
同じ年に亡くなった人物
- プトレマイオス10世 (紀元前88年没)
- マニウス・アクィッリウス (紀元前101年の執政官) (紀元前88年没)
- アウルス・ポストゥミウス・アルビヌス (紀元前99年の執政官) (紀元前 88年)
同じ地域に関係する人物
- ユリウス3世 (ローマ教皇) (1555年没)
- ガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前75年の執政官) (紀元前70年代没)
- ジョヴァンニ・レオーネ (2001年没)
- ルッジェロ・デオダート (2022年没)
- ジジ・プロイエッティ (2020年没)