HISTORICAL PERSON · 1237年没

アシュラフ・ムーサー

アイユーブ朝のクルド系君主で、スルタン・アーディルの子。父から任されたジャジーラ地方を総督として治め、1207年にはアフラートを支配下に収めた。

生涯
1237年没
死亡地
シリア共和国(ダマスカス県 / ダマスカス)
出生地
エジプト・アラブ共和国(カイロ)
出典
世界地図
シリア共和国(ダマスカス県)

伝記

アル・アシュラフ・ムーサーは、1178年ごろに生まれ、1237年8月27日に没した、クルド系のアイユーブ朝の君主である。アイユーブ朝のスルタン、アル・アーディルの子で、ハッラーン、のちにダマスクスの支配者となった。1200年に父がアイユーブ朝の最高位のスルタンになると、父は領地の長官職を息子たちに配り、アル・アシュラフはハッラーンの長官に任じられた。1201年には、ジャジーラ地方の総督に据えられたともされる。この地方の支配は、1218年に父が没したのちも、1229年まで続いた。貨幣はマイヤーファーリキーン、シンジャール、アフラト、アルビール、ハッラーンなどで鋳造させ、サラディンの肖像と「勝利の王、世界と信仰の正義、ユースフ・イブン・アイユーブ」の銘を持つものもあった。

1207年、アフラトはアイユーブ朝のものとなった。最後のソクメン朝の君主がルームのセルジューク朝の名のもとにエルズルム君主トゥグリルシャーに殺されたのち、アフラトの人々の招きで、アイユーブ家が町に入ったのである。1209年にはグルジア軍がアフラトを包囲した。アル・アーディルは各地の首長の軍を率いて救援に向かい、包囲のなかでグルジアの将軍イヴァネ・ムハルグルゼリが捕らえられた。解放の代わりに30年の休戦が結ばれ、グルジアの脅威は去った。のちにアル・アシュラフは、そのイヴァネの娘タムタを妻の1人とした。

1218年に第5回十字軍がエジプトのダミエッタを攻めると、アル・アシュラフは兵を出してトリポリ伯領へ陽動の遠征を行ったが、十字軍を引き離すことはできなかった。兄のアル・カーミルとアル・ムアッザムの2人と協力して十字軍に抵抗し、1221年に十字軍はダミエッタを返して去った。だがこの兄弟の結束は、1223年の末に崩れた。1226年、ホラズム軍に領地を脅かされたアル・アシュラフがダマスクスの兄アル・ムアッザムに助けを求めに行くと、アル・ムアッザムは彼を厚遇しつつ留め置き、アル・カーミルに対する同盟を迫った。解放されると、アル・アシュラフはただちに約束を破ってアル・カーミルの側についた。

1227年にアル・ムアッザムが没すると、その子アン・ナーシル・ダーウードは叔父のアル・アシュラフに、アル・カーミルに対抗する助けを求めた。しかしアル・アシュラフはアル・カーミルと協定を結び、甥の領地を分け合った。1229年6月にダマスクスを奪い、ここを拠点とする首長となった。その見返りにメソポタミアの領地をアル・カーミルに譲り、その宗主権を認めた。アン・ナーシルは、カラクを中心とする小領国で満足せざるをえなかった。1230年にはバールベックも取った。同じ年、ホラズム・シャー朝のジャラールッディーン・メングベルディーがアフラトを奪い、避難していたグルジアの王女だった妻を捕らえ、住民を虐殺した。アイユーブ家やルームのセルジューク朝などは連合して、エルズィンジャン近くでジャラールッディーンを大敗させた。

1233年になると、かつての同盟者たちはアフラト、エデッサ、ハッラーンの帰属をめぐって争い、アル・カーミルは全アイユーブ家を率いてルームのスルタン、カイクバードと戦った。戦いは2年続いた。その後は兄アル・カーミルの支配に不満を募らせ、1237年にカイクバードやシリアの小君主たちと同盟して、アル・カーミルに立ち向かおうとした。ところがカイクバードは夏の初めに急死し、アル・アシュラフ自身も8月27日に没して同盟は崩れた。娘が1人いただけで、ダマスクスは弟のアッ・サーリフ・イスマーイールが継いだ。

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