伝記
サラーフ・アッディーン(サラディン)は、一一三七年または一一三八年に生まれ、一一九三年三月四日に没した、エジプト、シリア、イエメンなどを支配したスンナ派のイスラーム王朝、アイユーブ朝の創始者である。本名はユースフ・イブン・アイユーブといい、サラーフ・アッディーンは「信仰の高潔」を意味する尊称である。現在のイラク北部の町ティクリートに生まれ、アルメニア出身のクルド人の一族に属した。エルサレム王国を一一八七年に破り、第三回十字軍とも戦ったことから、イスラーム世界の英雄とされる。
父ナジムッディーン・アイユーブはセルジューク朝支配下のティクリートで、クルド人の代官を務めていた。ユースフが生まれて間もない一一三八年頃、父の兄弟シール・クーフがキリスト教徒の官吏を誤って殺したため、一家はティクリートを追われた。かつてアイユーブはザンギー朝の創始者ザンギーが戦に敗れて逃れる際に手助けをしており、その恩義から兄弟はザンギーの軍団長に迎えられ、バールベックに領地を与えられた。ユースフは少年期をここで送った。一一四六年にザンギーが奴隷兵に暗殺されると、ダマスクスの総督ウナルがバールベックを包囲した。アイユーブはよく耐え、町を明け渡す代わりに保障金とダマスクス近郊の村々を得て、一家はダマスクスへ移った。ユースフは八歳ほどで、エジプトで権力を固める三十代前半まで、ここで過ごした。
一一五二年、数え十五歳のユースフはアレッポの君主ヌールッディーンのもとに出仕し、重臣となっていた叔父シール・クーフに仕えた。この年齢で、主君からイクターを与えられている。一一五四年にヌールッディーンがダマスクスを手に入れると、アイユーブはダマスクスの統治権を認められ、若いサラーフ・アッディーンも軍務長官などの職に就いた。財務長官と確執を生じて辞したが、主君は彼の側に立ったとされる。余暇にはポロや学問に親しみ、ポロは巧みだったという。
一一六〇年代に、ヌールッディーンは三度エジプトへ遠征軍を送った。一回目の一一六四年は完全な失敗に終わり、二回目の一一六七年には、サラーフ・アッディーンはアレクサンドリアの守備を任されて三か月耐え抜き、外国軍のエジプト撤退の協定を結ばせた。これが最初の軍功となった。三回目の一一六八年から翌年にかけての遠征でシール・クーフ軍はカイロに入ったが、シール・クーフは一一六九年三月二十三日に急死した。サラーフ・アッディーンは軍権を継ぎ、ファーティマ朝の宰相に就いた。これが事実上のアイユーブ朝の創設とみなされる。直属軍を編成し、旧ファーティマ朝軍から封土を没収してシリア軍のイクターとしたため、反発した黒人奴隷兵が蜂起したが、八月二十二日のカイロでの戦いでこれを一掃し、エジプトの実権を握った。以後、黒人奴隷兵は軍から排除され、白人奴隷兵のマムルークが重要な地位を占めるようになった。一一七一年九月にはファーティマ朝のカリフが後継ぎのないまま没し、王朝は滅んだ。この頃、主君ヌールッディーンから領土的な野心を疑われ、ダマスクスへの帰還を再三促されたが、理由をつけて応じなかった。一方で、ファーティマ朝時代のシーア派色を払うため裁判官をスンナ派に入れ替え、貨幣にアッバース朝カリフとヌールッディーンの名を刻ませて、帰順の意を示した。一一七四年二月には兄をイエメンへ送って征服させたが、これは主君の一族との開戦に備えた避難所とするためだったとも考えられている。同年五月、ヌールッディーンがダマスクスで病没した。彼はやがてエジプトとシリアを支配し、一一八七年にエルサレム王国を破った。
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