伝記
熙宗は、1181年6月21日に生まれ、1237年8月31日に没した高麗の第21代の王である。在位は1204年から1211年。姓は王、諱は韺といい、初めの名は淵、悳とも伝わる。諡号は仁穆誠孝大王である。父は神宗、母は靖和太后金氏で、その長子として生まれた。
高麗では1196年に崔忠献が政権を握り、1197年に明宗を廃して神宗を王位につけた。翌1198年には、開京で私奴の万積らが反乱を起こし、溟州、慶州、陜州など各地でも反乱が相次いだ。神宗が即位すると、熙宗は王太子になった。当時、実際に国を動かしていたのは崔忠献で、その弟の崔忠粋もいた。熙宗は、崔忠粋が太子妃を廃してその座に自分の娘を据えようとしたことから、2人に強い敵意を抱いたと伝わる。妃には、寧仁侯王稹の娘で成平王后任氏となる女性もいた。
1204年に神宗が病に倒れて退位し、熙宗が王位を継いだ。翌1205年、熙宗は崔忠献を晋康郡開国侯に封じた。崔忠献を油断させて討つために宰相の位や王の守護者の称号を与えたとも伝わり、その結果、崔忠献は王に近い力を持つに至った。崔忠献はその権力で、奴隷の反乱、新羅の復興を唱える一派の反乱、甥の朴晉材の反乱という3つの反乱を鎮めた。
1211年、熙宗は王濬明らとともに政権を崔忠献から奪い返そうと計画したが、計画は失敗に終わり、王位を廃された。崔忠献を病と偽って1人で宮殿に呼び入れ、クーデターを試みたが、崔忠献はかろうじて命を拾ったとも伝わる。熙宗は江華島から紫燕島に流され、康宗が代わりに王位についた。1215年には喬桐島に移された。1219年に都の開京に迎えられ、娘の徳昌宮主は崔忠献の子の崔珹に嫁いだ。この年に崔忠献は死去したが、その一族の政権は1258年まで4代62年にわたって続いた。
1227年、復位を企てているとして、崔忠献の子の崔瑀によって再び紫燕島に追放された。熙宗は1237年に、龍遊島の法天精舎で没し、江都に葬られた。子は5男5女といい、娘の1人は高宗の妃安恵王后となり、別の娘の嘉順宮主は、元宗の妃となる慶昌宮主柳氏を産んだ。息子のうち2人は僧になっている。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン・ド・ブリエンヌ (1237年没)
- 藤原家隆 (従二位) (1237年没)
- ベレンガリア・デ・レオン (1237年)
- カイクバード1世 (1237年没)
- アシュラフ・ムーサー (1237年没)