伝記
藤原家隆は、平安時代の末から鎌倉時代の初めにかけて生きた公卿であり、歌人である。1158年(保元3年)、権中納言藤原光隆の次男として生まれた。藤原北家の流れをくみ、初めの名は顕隆といった。母は藤原実兼、あるいは藤原信通の娘とされる。1175年(安元元年)に叙爵され、翌年には侍従となった。1180年に阿波介、1183年に従五位上、1185年に越中守となって地方官を兼ね、1193年(建久4年)の正月に侍従を辞して正五位下に進んだ。1198年には上総介に移った。
歌は藤原俊成に学んだ。寂蓮の婿だったという説もある。歌人としては晩成型であったが、『六百番歌合』や『正治二年初度百首』などの催しに加わり、やがて同時代の藤原定家と並び称されるようになった。御子左家と双璧と評価されるに至ったのである。『古今著聞集』によると、後鳥羽上皇が和歌を学びはじめたころ、九条良経に誰を師にしたらよいかと尋ねたところ、良経は家隆を推薦したという。家隆は院の歌壇の中心的な一人として活躍し、『新古今和歌集』の撰者の一人にもなった。
官位は1201年に従四位下、1205年に従四位上に進み、1206年(元久3年)に宮内卿となった。1207年に正四位下、1216年に従三位に叙され、1220年に宮内卿を辞して正三位に叙せられた。後鳥羽院が承久の乱で隠岐に流されたのちも、家隆は遠い配所から題を賜って和歌を送ったりしている。晩年になっても作歌意欲は衰えず、多作ぶりで知られ、生涯に詠んだ歌は六万首あったといわれる。
1235年(嘉禎元年)に従二位となったが、翌年の12月に病を得て79歳で出家し、仏性と号した。出家後は摂津の四天王寺に入り、その西側の地に夕陽庵を設けた。浄土教の教えである日想観を修め、そこから見える大阪湾に沈む夕日を好んで、その彼方の極楽浄土へ行くことを望んだ。のちにこの地は夕陽庵にちなんで夕陽丘と呼ばれるようになった。1237年(嘉禎3年)4月9日に没し、享年は80であった。現在の大阪市天王寺区夕陽丘町に、家隆塚と呼ばれる伝藤原家隆墓がある。
家集の『壬二集』は六家集の一つに数えられる。『千載和歌集』に5首が入ったのをはじめ、勅撰和歌集には281首が採られ、『新勅撰和歌集』にはもっとも多くの歌が収められた。歌風は平明で、ひっそりと静かな趣があると評され、小倉百人一首には従二位家隆の名で1首が入っている。妻は藤原雅隆の娘といい、男子には隆祐のほか長清、家祐、忠氏、隆尊、慈隆の名が伝わる。そのうちの隆祐と、娘で土御門院に仕えた小宰相も歌人として活躍した。
同じ年に亡くなった人物
- Joan, Lady of Wales (1237年)
- アンナ・マーリア (1237年)
- アシュラフ・ムーサー (1237年没)
- ベレンガリア・デ・レオン (1237年)
- ジャン・ド・ブリエンヌ (1237年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。