伝記
ジャン・ド・ブリエンヌは、シャンパーニュの騎士の家に生まれ、エルサレム王、のちにラテン帝国の皇帝となった人物である。父はブリエンヌ伯エラール2世、母はアニェス・ド・モンフォーコンで、4人の息子の末子だった。生まれた年は1148年とも、1170年代ともいわれるが、父が兄たちを「子ども」と呼んでいた記録から、現代の歴史家は1168年より後、おそらく1170年代の生まれと考えている。父は彼を聖職者にするつもりだったという。父が第3回十字軍に加わって聖地で没した1191年以後、長兄ゴーティエ3世が領主となり、ジャンは兄の宮廷で重要な人物になった。1205年に兄が南イタリアでの戦いのなかで没すると、ブリエンヌ伯の称号を得て、幼い甥の名で所領を治めた。
その後、フランス王フィリップ2世の取り計らいで、エルサレム女王マリー・ド・モンフェラートとの縁組が決まった。1210年9月、アッコに着いた翌日に結婚し、10月3日にティールで戴冠してエルサレム王となった。マリーは1212年に死去し、幼い娘イザベルを残した。ジャンはその摂政となり、同年7月にエジプトとシリアのスルタン、アル・アーディルと5年間の休戦を結んだ。この間に教皇インノケンティウス3世を説いて、第5回十字軍を動かしたという。1214年にはアルメニア王レヴォンの娘ステファニーと結婚し、息子ジャンが生まれた。
1218年にナイル河口の港ダミエッタをめざす十字軍に加わり、これを占領した。アル・カーミルがダミエッタとエルサレムの交換を提案したが、教皇特使の枢機卿ペラギウスやジェノヴァ勢らの反対で実現しなかった。ジャンはこの枢機卿と対立し、アルメニアの王位争いに向かうため1220年2月に戦線を離れたが、妻子がまもなく相次いで死んだので王位を諦め、十字軍に戻った。そこでアル・カーミルが堤防を切ってダミエッタを孤立させたため、十字軍は兵糧不足と疫病で危機に陥り、ダミエッタを返して捕虜を交換する条件で和睦し、撤退した。
その後、エルサレム王国への支援と娘イザベルの夫を求めて西欧へ渡り、教皇ホノリウス3世から、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を娘の相手にと提示された。教皇はこの結婚で、皇帝を十字軍に加わらせようとしたのである。交渉の段階では、ジャンが終生エルサレム王にとどまることにフリードリヒも同意していたが、1225年の結婚式の当日からフリードリヒがエルサレム王を名のり、ジャンは退位を余儀なくされた。1228年にフリードリヒが第6回十字軍で聖地へ向かうと、ジャンは教皇グレゴリウス9世の支持のもと、教皇軍を率いて南イタリアのフリードリヒの領土に攻め入った。だがフリードリヒがアル・カーミルと和議を結んでエルサレムを取り戻し、南イタリアへ戻ると劣勢になり、ラテン帝国へ逃れた。
1228年か1229年にコンスタンティノポリスに招かれて、若い皇帝ボードゥアン2世の摂政となり、3番目の妻ベレンガリアとの娘マリーを皇帝と結婚させた。1231年には、15歳の皇帝との共同皇帝に即位して政治を取り仕切った。1235年から1236年にかけて、ニカイア帝国のヨハネス3世とブルガリア帝国の連合軍に都を攻められ、滅亡の危機に陥ったが、防衛に徹してこれをしのいだ。1237年3月23日、都で没した。
同じ年に亡くなった人物
- 藤原家隆 (従二位) (1237年没)
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- ベレンガリア・デ・レオン (1237年)
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