伝記
アラーウッディーン・カイクバード1世は、1187年に生まれ、1237年5月31日に没したルーム・セルジューク朝の第11代スルタンである。在位は1220年から1237年で、先代カイカーウス1世の弟にあたる。父カイホスロー1世の次男として生まれ、幼いうちにマリクの称号と、要衝トカトの統治を与えられた。1211年に父がアラシェヒルの戦いののち死去すると、兄のカイカーウスとのあいだに帝位をめぐる争いが起きた。カイクバードは、キリキア・アルメニア王レオン1世や、叔父でエルズルム君主のトゥグリルシャーを味方にしたが、有力な首長たちの多くは兄を支持した。アンカラの要塞へ逃れ、カスタモヌのトルコマン諸部族の助けを求めたが、まもなく捕らえられ、兄によって要塞に幽閉された。
1219年、あるいは1220年に、カイカーウス1世がシリア遠征ののち病死したため、カイクバードは釈放されてスルタンの座に迎えられた。治世はルーム・セルジューク朝の全盛期とされる。即位すると、国政に携わる有力者の顔ぶれを一新し、思いのままに政権を運営できるよう、奴隷出身の軍人や新参の書記たちを取り立てた。その中にはテュルク系のほか、ギリシア系のルーム人、西欧系のフランク人、中央アジアから逃れてきたイラン系の人々が多く含まれていた。
拡大の動きは海にも向かった。地中海岸では、アンタリヤの東にあるカロノロスという港の町を、自ら軍を率いて包囲し、キリキア・アルメニアの総督から奪った。1221年とも1223年ともされる。町は彼の称号にちなんでアラーイーヤと呼ばれ、現在はなまってアランヤと呼ばれる。1225年のキリキア遠征では、キリキア・アルメニアを属国とした。1227年にはアイユーブ朝のスルタン、アル・アーディルの娘と結婚して同盟を固めた。1227年から1228年ごろ、モンゴルに追われたホラズム・シャー朝のジャラールッディーン・メングベルディーがアナトリアに入ると、情勢は不安定になった。カイクバードはタウルス山脈沿いにトルコマンを住まわせた。1228年にはエルズィンジャンのメンギュジク朝を従わせ、東へ領土を広げた。
1230年8月、アイユーブ朝と組んで、エルズィンジャンの西のヤッス・チメンの戦いでジャラールッディーンを破り、1194年にイラク・セルジューク朝のトゥグリル2世が敗死した仇を討った。勝利ののちは東へ進んで、エルズルム、アフラト、ヴァン湖周辺にも支配を及ぼした。グルジアの要塞をいくつも奪うと、女王は和を請い、娘タマルを彼の息子カイホスロー2世に嫁がせた。1234年から1235年には、シリア北部をめぐってアイユーブ朝と対立し、アイユーブ側の遠征軍を破った。モンゴルの力が増すことを意識して、東方の防備も固めた。
内政では、コンヤ、カイセリ、スィヴァスなどの主要都市に大きな城壁を築いて防衛拠点とし、アナトリア各地のキャラバン・サライや橋を新設あるいは整備して、通商路の安全を重んじた。町にはモスクや病院、公衆浴場などを建て、ワクフ制度で維持させた。ベイシェヒル湖畔のクバダバード宮殿やアランヤ城も築き、コンヤのセルジューク宮殿も完成させた。1237年5月、新たな遠征に備えてカイセリに軍を集めていたとき、50歳で急死した。長男カイホスロー2世が父を毒殺して権力を握ろうとしたとする見方がある。アイユーブ朝のアル・カーミルが和平を求めて送った使者は、間に合わなかった。モンゴル侵入後のアナトリアでは、人々が彼の治世を黄金時代として振り返り、のちの侯国の君主たちは、自らの正統性を彼につながる系譜に求めた。
同じ年に亡くなった人物
- Joan, Lady of Wales (1237年)
- 藤原家隆 (従二位) (1237年没)
- ベレンガリア・デ・レオン (1237年)
- 熙宗 (高麗王) (1237年没)
- ジャン・ド・ブリエンヌ (1237年没)
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