伝記
バシレイオス2世は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝で、在位は976年から1025年である。958年に生まれ、1025年12月25日に没した。禁欲的な軍人皇帝として知られ、第一次ブルガリア帝国などを征服し、ユスティニアヌス1世以来の最大の領土を実現して、帝国の最盛期を築いた。「ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)」の渾名で呼ばれ、「緋色の産室生まれ」の号が添えられることもある。
皇帝ロマノス2世の長男として生まれ、960年に共同皇帝となった。963年に父が若くして急死したのち、弟の共同皇帝コンスタンティノス8世とともに、単なる飾り物の共同皇帝として幼少年期を過ごした。実権は、寝室管理長官の大叔父、次いで母テオファノの再婚相手ニケフォロス2世フォカス、さらにニケフォロス2世を殺して帝位を奪ったヨハネス1世ツィミスケスが握った。964年のキリキア遠征には母とともにニケフォロス2世に従い、ドリズィオン要塞にとどまった。
976年にヨハネス1世が没して名実ともに正帝となったが、大叔父バシレイオス・レカペノスが引き続き政権を握り、彼と対立したバルダス・スクレロスの反乱や、ブルガリア皇帝サムイルの侵攻に悩まされた。986年のトラヤヌスの門の戦いにも出陣したが、内部対立もあって第一次ブルガリア帝国に敗れた。この敗北や、軍事貴族の不満、傭兵への敬意を欠いた対応に、占星術師らに端を発する流言による民心の動揺も重なって、バルダス・フォカスの反乱が起こり、絶体絶命の危機に陥った。皇帝はキエフ大公ウラジーミル1世の援軍を得てコンスタンティノス8世と出陣し、アビドゥスの決戦でバルダス・フォカスが死んで反乱は鎮まった。ウラジーミル1世は皇帝の妹アンナと結婚し、これを機にキエフ公国はキリスト教を受け入れて、キエフ大司教はコンスタンティノープル総主教の監督下に入った。反乱の前後に大叔父レカペノスを追放し、弟が政治に無関心なこともあって、実権を掌握した。989年の地震で崩れたハギア・ソフィア大聖堂の一部を再建した。
ブルガリアとは幾度もの戦いを重ね、997年のスペルヒオス川の戦いで戦況が好転し、23年にわたるブルガリア戦役を経て、1014年のクレディオンの戦いで大勝した。このとき、捕虜1万4千のうち100人に1人だけ片目を、残りは両目をつぶしてサムイルのもとへ送り返し、その光景を見たサムイルは卒倒して死んだという。1018年にブルガリアを滅ぼして、バルカン半島全域の支配を約400年ぶりに回復した。征服後は寛容な政策をとり、他の地域と違って税を物納にすることも許した。さらにシリア、アルメニアを攻め、占領地に新しいテマを置いた。歴史家プセルロスは、ブルガリアと交戦中にアンティオキアが攻撃されたと聞くと、そのまま軍を率いてシリアへ転戦したと記している。
内政では皇帝専制を進め、軍事貴族や大土地所有者を抑えて、農民から不正に得た土地を没収し、中小農民の土地保護に努めた。贅沢を慎んで財政支出を抑えたので、宮殿の倉庫は財宝で満ちたが、緊縮財政は経済発展を抑えたともいう。1025年12月25日、シチリアのイスラーム勢力を掃討する遠征の準備中に倒れて没した。結婚せず子がなかったため、弟のコンスタンティノス8世が継いだ。プセルロスによれば、背は低いが姿勢はまっすぐで、馬上では比類ない印象を与え、髭をしごく癖があり、早口で話したという。
同じ年に亡くなった人物
- ムハンマド3世 (後ウマイヤ朝) (1025年没)
- Eustathius of Constantinople (1025年没)
- マティルデ・フォン・ザクセン (979-1025) (1025年没)
- Oda of Meissen (1025年没)
- カースィム・マアムーン・ブン・ハンムード (1025年没)
同じ地域に関係する人物
- ヌーリ・キルリギル (1949年没)
- アレクシオス5世ドゥーカス (1204年没)
- Ali Riza Pasa (1932年没)
- Ayse Sineperver Sultan (1828年没)
- Mehmed Said Pasa (1914年没)