伝記
ガートルード・マーガレット・ロージアン・ベルは、1868年7月14日にイングランドのダラム・カウンティで、裕福な家庭に生まれた。イラク王国建国の立役者の一人となり、「砂漠の女王」の異名をとったイギリスの考古学者、登山家、紀行作家、行政官、情報員である。父方の祖父アイザック・ロージアン・ベルは、1870年代にイギリスの鉄鋼の3分の1を生産した企業の共同経営者で、自由党の国会議員を務め、王立協会会員の科学者でもあった。彼の客人にはダーウィンやラスキン、モリスらがおり、この環境が幼いガートルードを国際問題に触れさせた可能性が高いとされる。母メアリーは1871年に弟を出産中に亡くなり、当時3歳だったガートルードは、これをきっかけに父と生涯にわたる親密な関係を築いた。父が7歳のときに再婚した継母フローレンスは劇作家・童話作家で、工場労働者の研究も著し、義務感や礼儀を娘に教えた。
聡明だった彼女は、当時の同階層の女子としては珍しくロンドンの学校で初期の教育を受け、17歳でオックスフォード大学レディ・マーガレット・ホールに進んで近代史を学んだ。「何かに没頭したい」と父に書き送り、わずか2年で卒業したが、女性であるため学位は授与されなかった。大学が男女に平等に学位を授与するのは1920年になってからである。社交界にデビューしても高学歴が災いして求婚者は現れず、生涯未婚で子もなかった。1892年にテヘランへ向かい、公使館の外交官ヘンリー・カドガンと惹かれあって求婚を受けたが、両親は賭博癖と借金を理由に結婚を認めなかった。彼女はその後ハーフェズの詩の翻訳を始めたが、カドガンはテヘランで川に落ちて肺炎を起こし、亡くなった。初の随筆『ペルシャの情景』は1894年に刊行されている。
その後の10年間の大半は世界各地を旅し、スイスで登山を行い、考古学と語学に打ち込んだ。アラビア語、ペルシャ語、フランス語、ドイツ語に堪能になり、イタリア語とオスマン語も話し、2度の世界一周旅行の途中、1899年と1903年に日本にも立ち寄った。1899年から1904年に多くの山を制覇し、ベルナー・オーバーラントの山には、1901年に彼女がガイドと初登頂したことから名が付けられた。1902年には登攀に失敗し、悪天候の中、ロープの上で48時間を過ごして危うく命を落としかけた。登山と並行して考古学を学び、1905年にはシリアを経てユーフラテス川をめぐる旅に出て、その紀行文は1907年に『シリア縦断紀行』として単行本になった。1909年にはメソポタミアに向かい、カルケミシュで現地の考古学者に相談し、その一人がT・E・ロレンスであった。1913年には、ダマスカスからハーイルへ約1800マイルを旅し、アラビア半島を横断してバグダード経由で戻る最後で最も困難な旅を完遂した。
第一次世界大戦の勃発当初、中東への赴任は拒否され、フランスの赤十字に志願して西部戦線に身を置いた。その後、大戦期から死に至るまで、中東におけるイギリスの帝国政策を形づくる政治的な力と影響力を持つ唯一の女性であった。旅で築いた部族の指導者らとの関係を生かし、ロレンスとともに現在のヨルダンやイラクのハーシム朝を支援し、イラクの近代国家の確立と運営に大きな役割を果たした。彼女は「アラブの人々が愛情に似たものを覚えた数少ない一人」と評された。1926年7月12日に世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- メアリー・カサット (1926年没)
- ピエール・ドクルセル (1926年没)
- ナポレオン・ヴィクトル・ボナパルト (1926年没)
- ルドルフ・クリストフ・オイケン (1926年没)
- エイノ・レイノ (1926年没)
同じ地域に関係する人物
- アブー・ハフス・ウマル・アッスフラワルディー (1234年没)
- ナースィル (1225年没)
- ムティー (974年没)
- アブル・ワファー (990年代没)
- ラッバーン・バール・サウマ (1294年没)