伝記
アル・ハリーリーは、1054年に生まれた、アラビア語の学者・詩人・著作家である。本名はムハンマド・アル・カーシム・イブン・アリーといい、北アラブのラビーア族につながる家系を誇った。出生地はバスラとも、その近郊で家がナツメヤシ園を持っていたマシャーンともされる。裕福な家庭で教育を受け、アル・カサバーニーに師事し、シャーフィイー学派の法学を学び、言語や詩にも才能を示した。ハリーリーは絹に関わる人を意味し、家業や居住地との関係が考えられている。暮らしたバニーハラームの通りには特定の家族が定住し、バスラの絹の製造業が集まっていた。自身はバスラ郊外の農場から収益を得て、書記官や学者として暮らした。バスラでの生活と、バグダードでの文学活動を行き来した。
ハマザーニーが始めたマカーマに影響を受け、1101年ごろから自ら創作に取り組んだ。発端として、モスクに粗末な衣を着たアブー・ザイドという男が現れ、故郷サルージュが略奪され、娘が捕虜になったと、流暢で美しい言葉で語ったという話が伝わる。四十篇を書きためて一巻にまとめ、好評を期待してバグダードへ赴いた際には、かえって剽窃を疑われた。西方マグリブ出身で、バグダードで死んだ作家の遺稿を手に入れたのだと非難されたのである。宰相から指定された題で書簡を書くよう求められたが、即興を得意とせず、長く考えても書けなかった。その後バスラへ戻り、数か月の間に十篇を書き加えた。
1110年ごろに完成した『マカーマート』は、放浪者アブー・ザイドの弁舌と騙りを、バスラ出身の教養人ハーリスが見聞きして語る五十篇の物語である。説教の場や裁判、文化人の集まりなどで、主人公は巧みに目的を果たす。道徳、イスラム法、詩、文法など、扱う題も多方面に及ぶ。二人は架空の人物だが、主人公が侵略によって故郷を追われたという設定には、同時代の十字軍の侵入が背景にあると考えられている。文章は韻を踏む散文を基本とし、修辞、言葉や文字の遊び、難しい語彙、故事や諺を織り交ぜたものであった。
作品はアラビア語圏で人気を集め、遠くアンダルスからも、作者自身の朗読を聞くために人々が訪れた。学者や教養ある聴衆の前で朗読すると、聞き手は書き取り、自分の写本を訂正した。こうした公開の朗読が、作品を広める手段となった。生前から学者たちが作品を暗誦し、文学的な注釈を施すようにもなった。二人の息子にも、自作を朗読する訓練を施した。小柄で髭を生やし、思索にふけると髭を抜く癖があったという。容貌を見て遠ざかる訪問者には、自分は見るよりも聞くべき人間だと答えたと伝えられる。文法研究の『潜水夫の真珠』のほか、文法についての長詩、詩集や書簡集も残した。1122年9月10日、バスラで没した。
『マカーマート』には死後も多くの注釈書が作られた。挿絵は十三世紀以降の写本に現れ、挿絵付きの写本は十一種類が知られている。十三世紀のアンダルスでは、ヨーロッパの言語による模倣作も現れた。十三、十四世紀ごろからはヘブライ語やトルコ語などへの翻訳が行われた。ヨーロッパの言語で知られている最初の翻訳は、十七世紀のラテン語訳である。
同じ年に亡くなった人物
- シビラ・オブ・ノーマンディー (1122年)
- 睿宗 (高麗王) (1122年没)
- オットカール2世 (シュタイアーマルク辺境伯) (1122年没)
- イルガジ (1122年没)
- クリスティーナ・インゲスドッテル (1122年没)
同じ地域に関係する人物
- ズバイル・イブン・アウワーム (656年没)
- シュフダ・カーティバ (1178年没)
- イブン・アル=ムカッファ (757年没)
- ラービア・アダウィーヤ (800年代没)
- アブー・ダーウード・シジスターニー (888年没)