伝記
ナジュムッディーン・イルガーズィーは、オグズ系テュルクマンのデュゲル族に生まれたアルトゥク家の支配者である。父アルトゥクは一族の王朝の創始者で、セルジューク家のトゥトゥシュによってエルサレムの統治を任され、その死後、イルガーズィーと兄弟スクマーンが地位を継いだ。1096年にはダマスカスのドゥカーク、アンティオキアのヤギ・シヤーンと組み、アレッポのリドワーンに対抗した。しかしドゥカークと対立して投獄され、その間にスクマーンがエルサレムを押さえた。解放後に町を取り戻したものの、1098年にファーティマ朝の宰相アフダルによって奪われた。
その後はジャズィーラへ活動の場を移し、セルジューク朝のスルタンに仕えた。フルワーンを与えられ、バグダードではスルタンを代表してカリフの動向を監督するシフナを務めた。1104年にこの職を失ったが、同年にスクマーンが死ぬと一族の長となった。スクマーンの息子イブラーヒームはこれに異を唱えたものの、イルガーズィーは1108年にマルディンを奪取した。一族の長として特定の相手と長期の同盟を保つことはなく、情勢に応じて立場を変えた。協力する相手はイスラム教徒に限られず、キリスト教徒の十字軍勢力とも必要に応じて手を結んだ。1110年にはエデッサ包囲に参加したが、攻略には成功しなかった。1114年、甥バラクとともにモースルのセルジューク朝総督アクスンクル・ブルスキーを破り、スルタンの息子マスウードを捕らえた。
1115年にはホムスを包囲したが、逆に同地の総督ヒル・ハーンに一時捕らえられた。同年、セルジューク朝の将軍ブルスク・イブン・ブルスクに対抗するため、ダマスカスのトゥグテキンやアレッポのルウルウと協力し、十字軍諸侯によるアンティオキア防衛を支援した。両軍の直接の会戦はなく、ブルスクは後にアンティオキアのロジェに敗れた。1117年にルウルウが暗殺されると、イルガーズィーは王女アミナ・ハトゥンに招かれてアレッポの支配を得た。翌年にはマイヤーファーリキーンを掌握し、周辺を平定した。
1119年、イルガーズィーはアゲル・サングイニスの戦いでロジェを破って戦死させた。アサーリブ、ザルダナ、サルミーン、マアッラト・アンヌウマーン、カファルターブも軍の手に落ちた。しかし、勝利後の長い酩酊で軍の指揮が滞り、兵たちは略奪のため散らばったとされる。8月14日にはエルサレム王ボードゥアン2世とハブで激戦を交え、大きな損失を受けて押し戻された。翌1120年はニシビスを取り、エデッサ伯領へ侵入した。テル・バーシルからカイスーンまでの集落を焼き払い、多くの住民を奴隷としたのち、アルメニア方面へ向かった。
1121年、十字軍側と和平を結び、娘婿らの兵を加えてジョージアへ侵攻した。だがディドゴリでダヴィト4世に敗れ、イルガーズィーと娘婿ドゥバイス・イブン・サダカは逃れた。1122年にはバラクとともにエデッサ伯ジョスラン1世を破り、捕虜とした。同年11月8日、ディヤルバクルで死去し、マイヤーファーリキーンに埋葬された。アレッポはバラクが継ぎ、マルディンでは息子のスライマーンとティムルタシュが後を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- オットカール2世 (シュタイアーマルク辺境伯) (1122年没)
- アル・ハリーリー (1122年没)
- 睿宗 (高麗王) (1122年没)
- クリスティーナ・インゲスドッテル (1122年没)
- シビラ・オブ・ノーマンディー (1122年)
同じ地域に関係する人物
- シャガラザード・ユスフ・シナン・パシャ (1606年没)
- メフメド・ウズン (2007年没)
- Ruben Zardaryan (1915年没)
- レシド・メフメト・パシャ (1836年没)
- タドゥキパ (紀元前1400)