HISTORICAL PERSON · 1122年没

オットカール2世 (シュタイアーマルク辺境伯)

シュタイアーマルク辺境伯。叙任権闘争で教皇派につき兄に勝利、断絶したエッペンシュタイン家の遺領を継いで辺境伯領を帝国直属化させた。

生涯
1122年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

オットカール2世は、シュタイアーマルク辺境伯オットカール一世とヴィリビルク・フォン・エッペンシュタインの息子である。オタカール二世とも呼ばれ、トラウンガウとキームガウの伯でもあった。母はケルンテン公マルクヴァルトと、バンベルク司教アダルベロンの姉妹であった。1075年に父が没すると、初めは兄アダルベロが辺境伯位を継いだ。しかし教皇と帝国の間の叙任権闘争で、兄が皇帝側に立ったのに対し、オットカールは教皇を支持して対立した。兄は追放処分を受けて退くことになり、オットカールが1080年代に辺境伯を継いだ。継承年は1082年とも1088年ともされ、兄の死の時期にも異説がある。

1090年ごろ、オーストリア辺境伯レオポルト二世の娘エリーザベトと結婚した。二人の間にはレオポルト、クニグンデ、ヴィリビルクの三人の子が生まれた。統治の初期には、エッペンシュタイン家に連なるケルンテン公ルイトポルトによって実権を阻まれ、1105年になってようやく辺境伯領の支配を取り戻したともいわれる。ケルンテン公の上位権を認める立場にありながら、実際には独自の政策を進め、上シュタイアーマルクの小規模で半ば独立した所領を併合していった。

修道院の創設にも力を入れた。シュタイアー近郊のガルステンに設けた聖堂参事会の施設は、1107年ごろにゲットヴァイク修道院に属するベネディクト会の施設となり、さらにパッサウ司教区の独立した修道院へ発展した。1117年にはザルツブルクのノンベルク修道院の保護者も務めている。領土の拡大では、マリボルやプトゥイを含むドラヴァ川方面の辺境地帯を獲得したことが大きかった。治世の終わりまでに、その領地はドナウ川からドラヴァ川まで及ぶようになった。

1122年、ケルンテン公を出していたエッペンシュタイン家が断絶すると、母方の縁によって同家のムール川とミュルツ川の谷の所領を相続した。シュタイアーマルクはケルンテン公領への従属を離れ、帝国直属の辺境伯領となった。同年11月28日にオットカールは没し、息子レオポルトが辺境伯位を継いだ。娘クニグンデはスポンハイム・マリボル伯ベルンハルトと、ヴィリビルクはフォルムバッハ・ピッテン伯エクベルト二世と結婚した。後の1180年、オットカール二世の曾孫が初代シュタイアーマルク公となったが、1192年に後継者を残さず没したため、公領はオットカール二世の妻エリーザベトの出身家であるバーベンベルク家へ移った。

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