HISTORICAL PERSON · 394年没

リバニオス

ギリシア人のソフィスト学校の修辞学教師。アンティオキア出身で、皇帝ユリアヌスの友人。キリスト教徒でなかったが、教え子にヨハネス・クリュソストモスらがいる。1600以上の手紙と64の演説が残る。

生涯
394年没
死亡地
トルコ共和国(ハタイ県 / アンティオキア)
出生地
トルコ共和国(アンティオキア)
出典
世界地図
トルコ共和国(ハタイ県)

伝記

リバニオスは、後期ローマ帝国のギリシア人の修辞学教師で、ソフィストである。314年ごろ、シリアの大都市アンティオキアに生まれ、392年か393年ごろに没したとされる。キリスト教が覇権を強めていく時代に、ギリシアの伝統文化を守り続けた人物であり、キリスト教徒ではなかった。

生家はアンティオキアでかつては影響力を持った高い文化的地位の家系だったが、このころは没落しつつあり、財産も乏しくなっていた。11歳ごろに父を失い、母と二人の叔父が学業を見守った。15歳ごろに修辞学に専念すると決め、独学で古典修辞学を学んだのち、アテネで教師に就いて336年から340年まで過ごした。ラテン文学には疎く、東方でラテン語が流行することを嘆いていたという。

340年にコンスタンティノープルでの教職の話があったがうまくいかず、私的な教師として弟子の授業料で生計を立てた。多いときには80人の生徒を抱えたとされる。名声が高まって皇帝が彼を引き留め、定員外の職を提案するほどになったが、ライバルたちが342年のアリウス派とニカイア派の騒乱と弾圧に乗じて彼を市から追い出した。ニコメディアへ移って名声を得、幸福で多作な時期を送った。のちの皇帝ユリアヌスが彼の講義を密かに手に入れたとも伝わる。347年か348年ごろに呼び戻されたコンスタンティノープルは肌に合わず、354年にアテネの講座を断ってアンティオキアの講座を引き受け、以後は死ぬまでそこで暮らした。

アンティオキアに戻ると、奴隷身分出身の女性とのあいだに息子アラビオスをもうけた。市の指導者層や宮廷の官僚とも良い関係を築いた。皇帝ユリアヌスがペルシア遠征の準備のためアンティオキアに宮廷を置いたとき、その異教の信仰の表明と厳格さが市民との対立を生んだが、リバニオスは皇帝と友好を保った。363年のユリアヌスの死は彼に個人的な打撃となり、異教の帝国の復活という望みも断たれた。ユリアヌスを悼む演説などの作品が残る。365年ごろのプロコピオスの反乱や、371年から372年のテオドロスの陰謀の後には、ウァレンスが東方の都市に厳しい報復をし、多くの異教徒の知識人が迫害されたが、宮廷への影響力のあったリバニオス自身は直接の被害を免れた。378年のウァレンスの死の後は、新帝テオドシウス1世の宮廷の好意を再び得て、異教の神殿の保護を訴え、権力者の不正を告発した。383年か384年ごろには名誉財務官の称号を受けたとされ、また道長官の肩書きを与えられたともいわれる。

弟子にはキリスト教徒も異教徒もおり、後世のキリスト教著述家は、ヨハネス・クリュソストモスらをその弟子に数えた。現存する著作は、1,545通ほどの書簡と64の演説などで、書簡の数はキケロを上回る。374年に書き始め、生涯にわたって改訂した最初の演説は自伝的な語りである。演説は裁判、審議、誇示の三つの修辞分野にわたる。このほか歴史やギリシア神話を主題とする51の模擬演説、デモステネスの演説への57の仮説、初学者向けの予備練習の数々も残り、練習はよい文体の模範として広く称賛された。ユリアヌスとの往復書簡も現存し、4世紀後半の変化する世界を知る歴史史料として価値がある。踊り子のための演説は、ローマ人の娯楽の重要な記録とされる。神殿の破壊を嘆く演説がもっとも著名なものとされる。彼にとって修辞は単なる職業ではなく、生きる術だった。

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