HISTORICAL PERSON · 1098年没

ヤーギー・スィヤーン

セルジューク朝の武将で、1087年からアンティオキア総督を務めた。シリア諸侯の争いに関与し、第1回十字軍で重要な役割を担った。

生涯
1098年没
死亡地
トルコ共和国(ハタイ県 / アンタキヤ)
出生地
—
出典
世界地図
トルコ共和国(ハタイ県)

伝記

ヤーギー・シヤーンは、セルジューク朝のトゥルクマーン系軍人で、十一世紀末にアンティオキアを治めた総督である。同市はフィラレトス・ブラカミオスの支配下にあったが、一〇八四年から一〇八五年ごろ、スライマーン・イブン・クタルミシュが征服した。スライマーンがアレッポ進出を試み、一〇八六年にトゥトゥシュとの戦いで死ぬと、同市は大セルジューク朝のスルターン、マリク・シャーの支配に入った。ヤーギー・シヤーンは翌年、総督に任命された。一〇九二年にマリク・シャーが死ぬと、トゥトゥシュからマンビジやトゥルベッセル周辺の領土も与えられた。一〇九五年にトゥトゥシュも戦死し、その子リドワーンとドゥカークがアレッポとダマスカスを争うと、ヤーギー・シヤーンも争いに深く関与した。

一〇九六年にはリドワーンと協力してエデッサを攻めたが、翌年にはドゥカークを支持し、リドワーンとその同盟者スクマーンに対抗した。しかし軍が敗れたため、リドワーンの優位を認めなければならなかった。その後、リドワーンが後見人ジャナーフ・アッダウラと対立すると、この後見人に私怨のあったヤーギー・シヤーンは提携へ傾いた。娘をリドワーンと結婚させ、共同でシャイザルを攻撃しようとしていたところへ、十字軍接近の知らせが届いた。双方は自領に戻り、防備を整えた。ヤーギー・シヤーンの兵六千では十字軍に対抗できず、統一した防衛を目指して援軍を求めたが、諸総督の反目とスルターン死後の混乱によって支援は乏しかった。スクマーンは救援を断り、近隣のリドワーンも当初は少数しか送らなかった。

一〇九七年から翌年にかけての冬、アンティオキアは十字軍に包囲された。ヤーギー・シヤーンはドゥカークへ助けを求める一方、しばしば出撃して敵の陣営や食糧調達隊を襲った。敵中の情報提供者から、レーモン四世とボエモンがともに市の領有を望んでいることも把握していた。十二月二十九日、ボエモンが食糧調達に出ている間にレーモンが攻めたが、総督の軍はこれを撃退した。しかし翌日、ドゥカークの援軍はボエモンに敗れてホムスへ退いた。一〇九八年二月八日から九日には、アレッポから来たリドワーンの軍も敗れた。その間、総督は敵陣の留守を守る歩兵を襲ったものの、勝って戻った十字軍に押し返された。

三月にはサン・シメオン港から木材などを運ぶ十字軍を待ち伏せした。ボエモンとレーモンが死んだとの噂で敵陣が混乱すると、ゴドフロワ・ド・ブイヨンの兵にも攻撃したが、両将が帰還して再び市内へ退いた。今度はモースルのケルボガに救援を求めたため、十字軍側は援軍到着前の攻略を急いだ。ボエモンは、総督の守備兵で改宗したアルメニア人のフィールーズと密約を結んだ。六月三日、フィールーズの手引きで敵が市内へ入ると、ヤーギー・シヤーンは護衛と逃走した。息子シャムス・アッダウラは内城に残って防戦した。逃走中に落馬して負傷した総督は、運べないと判断した護衛に置き去りにされた。そこでアルメニア人に発見されて首を切られ、その首はボエモンへ贈られた。六月三十日にアンティオキアは降伏したが、市の領有をめぐっては、総督の邸宅を押さえたレーモンと内城を得たボエモンの争いが続いた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物