伝記
アドリアノス・コムネノスは、1060年から1065年の間に生まれたビザンツ帝国の貴族、軍人である。父ヨハネス・コムネノスは皇帝イサキオス1世の弟で、母はアンナ・ダラセネであった。5人兄弟の四男にあたり、後の皇帝アレクシオス1世は兄である。父の死後、母はアドリアノスと弟ニケフォロスを家庭教師に預け、幅広い学問を学ばせた。1081年にアレクシオスが帝位につくと、新設されたプロトセバストスの位を与えられた。この位は一時、姉マリアの夫ミハイル・タロニテスやヴェネツィア共和国の元首も共有した。同年10月以降、皇帝コンスタンティノス10世とエウドキア・マクレンボリティッサの娘ゾエ・ドゥーカイナと結婚した。
1082年から1083年、ロベルト・イル・グイスカルドとボエモンのノルマン軍がテッサリアへ侵入すると、その迎撃で指揮を担ったとされる。皇帝の標章を預かって退却を装い、追跡してきた敵の背後をアレクシオスの軍が襲う作戦に加わったという。ただし、この偽装退却を行った将軍をニケフォロス・メリッセノスとする伝承もあり、アドリアノスの役割は確定していない。1084年8月には、ハルキディキのカサンドラ半島全体から生じる収入を、生涯受け取る特権を得た。これは対ノルマン戦の功績への褒賞だった可能性がある。1086年末か1087年春には、グレゴリオス・パクリアノスを継ぎ、西方スコライ軍団長となった。
1087年、ドリストラでペチェネグ人と戦った際には、ビザンツ軍の中央に置かれたフランク人傭兵部隊を指揮した。しかし戦いは帝国側の惨敗に終わり、アドリアノスも辛うじて捕虜となるのを免れた。1091年の対ペチェネグ遠征にも参加し、ミハイル・ドゥーカスとともにエヴロス川に橋を架ける作業を監督した。この遠征は最後にレヴニオンでの大勝に至るが、その決戦でのアドリアノスの役割は分からない。ほどなくフィリッポポリスでは兄イサキオスと激しく争った。イサキオスの息子でデュッラキオン総督のヨハネスに皇帝への陰謀の疑いがかかり、父イサキオスが、その告発の責任はアドリアノスにあると考えたためである。
1094年6月、セレスでニケフォロス・ディオゲネスを裁く法廷の長となった。被告は元皇帝ロマノス4世の息子で、アレクシオス暗殺を企てた罪に問われていた。だが、アドリアノスは共謀者の名を明かそうとしない被告から、証言を引き出せなかった。同年には、カルケドンのレオンを非難したブラケルナイの教会会議にも出席した。妻ゾエとの間には息子アレクシオスと、名の確定しない二人の娘がいた。娘の一人は1102年ごろ、モノエクムの領主グリマルド2世と結婚し、ほどなく夫とともに没した可能性がある。
アドリアノスは晩年に修道院へ入り、ヨハネスと名乗って1105年4月19日に没したという説が広く受け入れられている。一方、没年を1118年から1136年の間に置く説もある。ゾエも修道生活ではアンナと名乗ったと考えられ、夫妻はコンスタンティノープルのパンマカリストス教会の創建者ともみなされている。息子アレクシオスの子孫はパレオロゴス家と結びつき、後の皇帝ミハイル8世の母方の祖先となった。
同じ年に亡くなった人物
- ラシ (学者) (1105年没)
- 粛宗 (高麗王) (1105年没)
- ユーディト・フォン・シュヴァーベン (1105年)
- フリードリヒ1世 (シュヴァーベン大公) (1105年没)
- インゲ1世 (スウェーデン王) (1105年)
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