HISTORICAL PERSON · 1105年没

フリードリヒ1世 (シュヴァーベン大公)

シュタウフェン家として初めてシュヴァーベン大公位を得た人物。ホーエンシュタウフェン山上に一族の本拠となる城を築き、家名の由来となった。

生涯
1105年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

フリードリヒ1世は、1050年ごろに生まれたシュタウフェン家の貴族で、同家で初めてシュヴァーベン大公となった。父はリースガウ伯フリードリヒ・フォン・ビューレン、母はエギスハイム=ダグスブルク伯ゲルハルト1世の娘ヒルデガルトである。大公になる前は伯であったとみられ、そのころから一族の力を広げ始めていた。ホーエンシュタウフェン山上に城を築き、一族の本拠地とした。この城のある山は家名の由来にもなった。ただし当時の所領はなお小さく、山の周囲と、母がアルザスに持つハーゲナウやシュレットシュタット周辺の土地が中心だった。母の所領には、後者の近くのホーフケーニヒスブルク城も含まれていた。

1077年、シュヴァーベン大公ルドルフ・フォン・ラインフェルデンがハインリヒ4世に反抗すると、フリードリヒは皇帝への忠誠を保った。1079年初め、反皇帝側の貴族たちはルドルフの息子ベルトルトを大公に選んだ。これに対し、ハインリヒ4世は同年の復活祭にフリードリヒへ大公位を与え、幼い娘アグネスとの婚約も結ばせた。皇帝の娘を妻に迎えることと大公位の獲得が、一族の地位を変える転機となった。しかし、任命を受けただけでシュヴァーベン全域を支配できたわけではなく、二人の大公の対立はその後も続いた。

アグネスとの結婚は1086年または1087年に行われた。二人は11人の子女をもうけ、息子フリードリヒは1090年、コンラートは1093年に生まれた。フリードリヒ1世は主に北へ勢力を伸ばし、ライン宮中伯領でヴァイセンブルクやシュパイアーの修道院の保護職を掌握した。こうして在地の強固な基盤を築き、シュタウフェン家はラインフランケンにあるザリアー家の所領の多くを手にした。南ではウルムのかなりの土地を押さえたが、ドナウ川を越えた側の支配地は少なかった。皇帝がイタリアへ遠征し、北方の領主たちが不在となる間には、帝国領で最上位の軍司令官も務めた。

1097年、ルドルフの娘婿で後継者となったツェーリンゲン家のベルトルト2世との和平が成立した。それでも大公領の分裂は解消されず、両者はそれぞれの支配基盤を保った。1100年ごろ、ロルヒの要塞はベネディクト会の修道院に移され、この修道院が一族の菩提寺となった。フリードリヒは弟のストラスブール司教オットーの支援も受け、ペーター・フォン・リュッツェルブルクとともにザンクト・ヴァルブルガ修道院を創設している。城の建設や所領の拡張と並び、修道院との関係も一族の拠点づくりに含まれていた。

1105年、遅くとも7月21日より前に死去した。最初はロルヒの教会に葬られ、創建した修道院の付属教会が完成すると、息子コンラートによって改葬された。大公位は息子フリードリヒ2世が継いだ。コンラートも1138年にローマ王に選ばれ、コンラート3世となった。フリードリヒ2世の息子は、後の皇帝フリードリヒ1世である。1475年、ロルヒの修道院長ニコラス・シェンク・フォン・アールベルクは、中央身廊の聖歌隊席の階段前や席内にあった墓を開いた。そこにあった遺体は、一つの棺へまとめて納められた。その棺は現在、中央身廊に置かれている。

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