伝記
アルフレッド・アシリングは、イングランド王エゼルレッド2世(無策王)の息子で、1036年に没した王子である。生年は1012年とも1005年ともいわれる。エゼルレッドには8人の息子がおり、アルフレッドと、のちにエドワード懺悔王となる兄弟は、後妻であるエマ・オブ・ノルマンディーの子とされる。ノーブルの異名でも知られる。のちに母エマがクヌート大王と結婚したため、兄弟はクヌートの義理の子となったが、クヌートの治世の権力争いに巻き込まれていくことになった。
1013年、首都ロンドンがデーン人の軍勢に包囲され、エゼルレッド王をはじめウェセックス王族はノルマンディーへの亡命を余儀なくされた。エゼルレッドは1014年に帰還して再び王位に就いたが、1016年に世を去った。同じ年にクヌートが再びイングランドへ侵攻したため、アルフレッドとエドワードは再びノルマンディーに逃れ、伯父にあたるノルマンディー公の宮廷に身を寄せた。この公は、甥たちを支援してイングランドへ侵攻する計画を立てていたとされる。
1035年にクヌートが亡くなると、ウェセックス家によるイングランド統治を取り戻す好機と見て、アングロ・サクソン王族が亡命先から舞い戻った。アルフレッドはサセックスに上陸し、ノルマン人傭兵からなる近衛部隊を率いてロンドンへ向かった。しかし、アングロ・サクソン貴族のゴドウィンの裏切りに遭って捕らえられ、失明させられた。その傷がもとで間もなく亡くなったとされ、没した場所はイーリー、日付は1037年2月5日とする説もある。
のちにハーデクヌーズが王位に就くと、兄弟アルフレッドの殺害に関わったとして、ゴドウィン伯とリフィング司教を告発して裁判を行った。リフィング司教は一時的に司教座を失ったが、ゴドウィン伯は、ハロルド兎足王の命令に従っただけだと主張し、証人も呼び出した。さらに豪華な80人乗りの軍船を王に贈ったことで、お咎めなしとなった。司教もその後王と和解し、司教に再任された。言い伝えでは、エドワード懺悔王もハーデクヌーズと同じくゴドウィンの関与を疑っていたと考えられている。
1042年にアルフレッドの兄弟エドワードが即位し、ウェセックス家の統治は続いた。だがアルフレッドの死は、エドワードがゴドウィン伯とその息子たち、そしてアングロ・サクソン貴族に不信感を抱く大きな理由となり、宮廷でノルマン人勢力が拡大する原因にもなった。1929年にはギルフォード西方で、縛られて処刑された223人の遺骨が見つかった。ノルマン兵とみられ、墓は1040年ごろのものとされ、後代の記録からアルフレッドの先遣隊の兵だったことが示唆されている。
同じ年に亡くなった人物
- Mstislav of Chernigov (1036年没)
- 後一条天皇 (1036年没)
- ザーヒル (1036年没)
- アブー・ナスル・マンスール (1036年没)
- ヒシャーム3世 (1036年没)
同じ地域に関係する人物
- アーサー・エディントン (1944年没)
- エドワード・グランヴィル・ブラウン (1926年没)
- マックス・ペルーツ (2002年没)
- アラン・ロイド・ホジキン (1998年没)
- ジェームズ・フレイザー (1941年没)