伝記
アーサー・スタンレー・エディントンは、1882年12月28日にイングランドのケンダルで、クエーカー教徒の両親のもとに生まれた天文学者である。父アーサー・ヘンリーはクエーカーの教育大学の教員から、ケンダルのストラモンゲート・スクールの校長になった人物だったが、1884年、息子が2歳のときに流行していた腸チフスで亡くなった。母サラ・アンはダーリントン出身の同じくクエーカーで、少ない収入でアーサーと姉を養った。一家はウェストン・スーパー・メアに移り、アーサーは家庭で教育を受けたのち、私塾で3年ほど学んだ。1893年にブリメリン・スクールに入り、とりわけ数学と英文学に秀でた。1898年に60ポンドの奨学金を得て、16歳でマンチェスター大学のオーウェンズ・カレッジに入学し、2年目から物理学を専攻して、数学教員ホレイス・ラムから多大な影響を受けた。1902年に特優の成績で理学士の学位を得た。
75ポンドの奨学金を得て、1903年にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入った。1905年に修士号を取って卒業し、キャヴェンディッシュ研究所で熱電子放出の研究を行ったが成果を挙げられず、専攻を数学に変えても芳しい結果は得られなかった。同年末に大学を離れ、王立グリニッジ天文台長の助手長として初めて常勤の職に就いた。小惑星エロスの写真乾板の像の視差を解析する仕事を任され、新しい統計的手法を編み出して、1907年にスミス賞を受けた。これによりトリニティ・カレッジの特別研究員となった。1913年にジョージ・ダーウィンの後任としてプルーム天文学・実験哲学教授職に推薦され、翌年にはケンブリッジ天文台長に指名された。1914年には王立協会フェローに推挙されている。
第一次世界大戦で召集されると、クエーカーで平和主義者として、良心的兵役拒否者の立場から陸軍での任務を拒んだ。研究者仲間が、科学にとって重要な存在だと軍を説得し、兵役は免除された。戦中には、アインシュタインの一般相対性理論を英語圏に紹介する論文『重力の相対性理論に関するレポート』を書いた。戦後の1919年5月29日、アフリカのプリンシペ島に遠征して日食を観測し、太陽の近くに見えるヒアデス星団の恒星を撮影した。一般相対性理論によれば、太陽の重力場で光線が曲がり、星の位置はずれて見えるはずだった。観測結果は一般相対性理論の予測を裏付けるものとして歓迎され、世界中の新聞で報じられた。このとき、「相対論を理解しているのは世界で3人しかいない」という話を記者から聞いたエディントンが、「はて、3人目は誰だろう」と冗談交じりに答えた話は有名である。ただ、近年の科学史の研究では、元の観測データは決定的ではなく、データを恣意的に選んだ可能性も指摘されている。
恒星の内部構造の研究では、恒星を輻射平衡にあるガスとしてモデル化して、内部温度が数百万度になることを示した。1920年には、アストンによる原子量の精密な測定をもとに、恒星は水素からヘリウムへの核融合でエネルギーを得ていることを初めて示唆した。1923年には講義の内容を『相対論の数学的理論』にまとめ、アインシュタインはこれをあらゆる言語の中で最も素晴らしい解説書と述べた。1930年にチャンドラセカールがブラックホールの存在を理論的に指摘したときには、頭ごなしに否定した。晩年は、量子論と相対論と重力を統一する「基本理論」の構築に没頭し、微細構造定数をめぐる主張で科学界から距離を置かれた。1944年11月22日にケンブリッジで亡くなり、『基本理論』は1946年に出版された。
同じ年に亡くなった人物
- ニコライ・クズネツォフ (スパイ) (1944年没)
- ヘンドリック・ウィレム・ヴァン・ルーン (1944年没)
- ハロルド・ロウ (1944年没)
- アレハンドロ・ビジャヌエバ (1944年没)
- ペーター・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク (1944年没)
同じ地域に関係する人物
- ハーバート・バターフィールド (1979年没)
- ジョン・クーチ・アダムズ (1892年没)
- アーサー・セシル・ピグー (1959年没)
- エドマンド・リーチ (1989年没)
- アーネスト・ラザフォード (1937年没)