HISTORICAL PERSON · 1941年没

ジェームズ・フレイザー

原始宗教や儀礼、神話を比較研究した大著『金枝篇』を著したイギリスの社会人類学者・古典学者。

生涯
1941年没
死亡地
イギリス連邦(ケンブリッジシャー / ケンブリッジ)
出生地
イギリス連邦(グラスゴー)
出典
世界地図
イギリス連邦(ケンブリッジシャー)

伝記

ジェームズ・ジョージ・フレイザーは、1854年1月1日にスコットランドのグラスゴーで、長老派教会の信徒の両親のもとに生まれた社会人類学者・古典学者である。父はダニエル・フレイザー、母はキャサリン・ブラウンといった。学校ではスプリングフィールド・アカデミーを経て、ヘレンズバラのラーチフィールド学院に通い、1869年11月にグラスゴー大学に入学してギリシア語とラテン語を専攻した。1874年1月に奨学金の給付生に選ばれ、同じ年の秋にケンブリッジのトリニティ・カレッジに入って古典学の研究に没頭した。そのころ、E・B・タイラーの『原始文化』を読んだことと、旧約聖書をイスラエル人の古い民間伝承と比較していた友人の聖書学者ウィリアム・ロバートソン・スミスに会ったことが契機となり、古典学から人類学・民族学・神話学の方向へ関心が移っていった。1879年に優等卒業試験を受けて特別研究員の枠を勝ち取り、学者の道に進んだ。トリニティを出たのちミドル・テンプルで法律も学んだが、弁護士として働くことはなかった。

トリニティ・カレッジの特別研究員には4度選ばれ、1907年から1908年にかけてリヴァプール大学で過ごした一年を除いて、生涯の大半をこの学寮と結びついて過ごした。イタリアとギリシアを訪れた以外はほとんど旅行をせず、おもな資料は古代の歴史書と、世界中の宣教師や植民地の役人に郵送した質問票だった。1896年、42歳のときにフランス人の未亡人リリィ・グローブと結婚した。リリィは作家で、のちに『金枝篇』を子ども向けの物語に直して『金枝篇の葉』を書いている。

畢生の大作は『金枝篇』である。古代の祭祀や儀礼、神話を研究し、初期キリスト教における類似も論じた。第1版は1890年に2巻で、第2版は1900年に3巻で刊行され、1915年に完成した第3版は12巻に及び、1936年に補巻の第13巻が加わった。1922年には、妻リリィが主に編んだ一巻本の短縮版が出た。この本の影響は学界の外にも広がり、フロイトは『トーテムとタブー』で、フレイザーの『トーテミズムと外婚制』をしばしば引用している。神話の背後に見いだした生と死と再生の象徴的な循環は、詩人や芸術家の世代を魅了し、T・S・エリオットの詩『荒地』(1922年)はその最もよく知られた成果といわれる。ただし、神話と儀礼の関係を詳しく論じた最初の学者でありながら、毎年の王の犠牲という構想は、のちの現地調査では裏づけられなかった。20世紀後半には、エドマンド・リーチらが、離れた文化から広く比較を引く手法を批判した。

『金枝篇』を書き始める前の1884年ごろ、パウサニアス『ギリシア案内記』の訳注に着手し、1898年に刊行した。これは6巻の注釈で、1870年代のシュリーマンの発掘で活用されたため需要が高まっており、古代ギリシアの宗教の記述を含むことから、フレイザーにとっては「未開世界の民族誌」としても読める書物だった。晩年は人類学から古典学に回帰し、アポロドーロスの『ビブリオテーケー』やオウィディウスの『祭暦』の訳注を通じて、初期のローブ古典叢書にも関与した。1914年にナイトに叙され、1925年にはメリット勲位を受けた。1930年ごろから視力がきわめて悪くなり、1941年5月7日、妻リリィとともに、数時間の差でケンブリッジで亡くなった。

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