伝記
ヒシャーム3世は、後ウマイヤ朝の最後のコルドバ・カリフである。アンダルス(イスラム支配下のイベリア半島)でウマイヤ家の君主として1027年から1031年まで在位した。一説には1026年からともいわれる。正式の称号はアル・ムウタド・ビッラーで、「神に頼る者」を意味する。スペイン語圏の記述では、975年にコルドバで生まれ、1036年にレリダで没したとされ、コルドバ・カリフ国の第12代にして最後のカリフとされる。兄は先代のアブド・アッラフマーン4世である。
1025年、ヤヒヤ・イブン・アリーがコルドバへ進軍した。時のカリフのムハンマド3世は怠惰で精彩を欠く人物で、ヤヒヤが近づくと都から逃げ出した。その後、コルドバの貴族は評議会を作って街を治めたが、約6か月後にヤヒヤに入城してカリフ位に就くよう求めた。ヤヒヤは11月9日に到着したが、財政は空で、機能する政府も、法を執行する軍や警察もなく、城壁の外への影響力もなかった。このため彼はカリフの地位に関心を示さず、宰相のアブー・ジャアファル・アフマド・ブン・ムーサーに都を任せて、拠点のマラガへ戻った。
ハンムード家がふたたび支配することに不満をもつ各地のスラブ人の統治者たちは、小規模な軍を集めて宰相とその軍勢を都から追い出したが、自分たちの統治体制は立てずに去った。そこで貴族たちが実権を握り、国境地方の総督たちとコルドバの人々との長い交渉の末、1027年6月にヒシャームがカリフに選ばれた。アルプエンテで即位を宣言されたのは6月4日ともされる。しかしコルドバがハンムード家のベルベル人の軍に占領されたままだったため、ヒシャームは故郷のアルプエンテをすぐには出ず、都に入ったのは1029年12月だった。
政務は首相のハカム・イブン・サイードに任された。ハカムは国の運営に手腕を欠き、ヒシャームの放縦に付き合って多くの時間を費やしたとされる。モスクの建設費などをまかなうための増税は、イスラム法学者らの強い反対を招き、国庫は破綻に近づいたともいわれる。1031年にはウマイヤ家のウマイヤ・イブン・アブド・アッラフマーンが王位を狙って現れ、不満をもつ民兵を集めて、11月30日にハカムを待ち伏せして殺害した。
ハカムの死をきっかけに、ヒシャームの無能を責める蜂起が起こり、ヒシャームは投獄された。騒ぎはいくぶん収まったが、貴族たちは彼を都から出すことにした。ヒシャームはコルドバを離れ、亡命先で1036年に没した。没地はバラゲーとも、レリダ付近でスライマーン・イブン・フードの保護を受けたのちのレリダともいわれ、没年を1035年とする説もある。ヒシャームの廃位でカリフ国は滅び、最盛期から約100年で大きく縮んでいた領土は、軍事的には弱いが文化的には進んだ、多数のタイファ(小王国)に分かれていった。
同じ年に亡くなった人物
- Mstislav of Chernigov (1036年没)
- アルフレッド・アシリング (1036年没)
- 後一条天皇 (1036年没)
- ザーヒル (1036年没)
- アブー・ナスル・マンスール (1036年没)
同じ地域に関係する人物
- ギフレ1世 (897年没)
- レオノール・デ・シシリア (1375年没)
- ガスパル・デ・ポルトラ (1786年没)
- ペドロ1世 (アラゴン王) (1104年没)
- ボレイ2世 (993年没)