HISTORICAL PERSON · 1002年没

アンリ1世 (ブルゴーニュ公)

パリ伯ユーグ大公の末子で、フランス王ユーグ・カペーの弟。聖職者だったが兄の死で965年にブルゴーニュ公に選ばれた。三度結婚しても男子がなく、継子を後継者としたため継承争いが起きた。

生涯
1002年没
死亡地
フランス共和国(コート=ドール県 / Pouilly-sur-Saone)
出生地
—
出典
世界地図
フランス共和国(コート=ドール県)

伝記

ブルゴーニュ公アンリ1世は、946年(948年ごろともされる)に生まれ、1002年に没した、ヌヴェール伯にしてブルゴーニュ公(在位965年-1002年)である。大公(ル・グラン)とも称される。生まれたときの名はウードといい、ブルゴーニュ公に選ばれてからアンリの名を用いたため、ウード=アンリの名でも知られる。

パリ伯ユーグ大公と、東フランク王ハインリヒ1世の娘ハトヴィヒとの間の末息子で、のちのフランス王ユーグ・カペーの弟にあたる。幼いころに教会に入り、ブルゴーニュ公だった兄オトンが965年2月22日に死去したときには聖職者となっていた。ブルゴーニュの伯たちは、国王ロタールの承認のもとでウードを兄の後継者に選び、「アンリ」の名が与えられた。地元の文書ではしばしばウード=アンリと呼ばれたが、王の文書では聖職者たちが単にブルゴーニュ公アンリと記している。ただし、アンリ自身が直接領したのは三つの伯領にすぎず、921年に死去したブルゴーニュ公リシャールの領地を中心とした残りの六つの伯領は、アンリの家臣が領有していた。ほかに、異母兄のエリベールがオセールの司教を務めていた。ユーグ・カペーの子で国王のロベール2世は甥にあたる。

972年ごろ、イタリア王アダルベルト2世の寡婦ジェルベルジュと結婚した。夫の死後、息子のオット=ギヨームを連れてオータンに身を寄せていた女性で、この息子はアンリに養子として迎えられ、のちにブルゴーニュ伯とマコン伯になる。二度目の妻はガスコーニュ公ギヨーム2世の娘ガルサンドで、992年より前の時期の結婚とされるが、のちに離縁されたという。三度目にシャロン伯ランベールの娘マティルドと結婚した。いずれの妃との間にも男子は得られず、後継者となったのは初婚の妃の連れ子であるオット=ギヨームだった。このためオット=ギヨームの支持者とロベール2世の支持者の間で継承争いが起こり、最終的にロベール2世側が勝利した。

アンリは宗教施設の秩序が保たれることを望んだ。異母兄のエリベールがオセール司教だったが、サン=ジェルマン修道院に聖ベネディクトの戒律を復興させるよう、クリュニー修道院長の聖マイユルに求めたのはアンリである。マイユルは自ら出向いてこれを行い、ヘルドリックを後継の修道院長に据えた。エリベールとアンリは、この修道院と院長の必要に特に気を配り、寛大に応じた。第二の妃ガルサンドの求めで、アンリはヘルドリックにサン=レジェ・ド・シャンポー修道院の改革もさせている。990年には、サン=レジェ小修道院長フーシェが、ディジョンのサン=ベニーニュ修道院長ギヨーム・ド・ヴォルピアノの森の扱いをめぐって訴え出た。訴えはアンリら三者に向けられ、当事者には森の検分が促されたうえで、決闘による裁きが命じられた。決められた日にはサン=ベニーニュの院長代理が出頭したが、相手は姿を現さなかった。また、シャロン伯でオセール司教のユーグがパレ=ル=モニアルをクリュニー修道院長オディロンに寄進した盛大な式典には、甥の国王ロベール2世や多くの領主とともに出席している。

アンリは1002年に没し、ロドゥルフス・グラベルによればプイイ=シュル=ソーヌの城で亡くなって、10月にオセールに葬られた。三度目の妃マティルドとの間に一人娘アランブルジュ(999年生まれ)がおり、ダルマス1世・ド・スミュールと結婚している。マティルドは夫との死別後、スミュール卿ジョフロワ1世と再婚した。なお、アンリには母の分からない庶子がいたとも伝えられ、その一人にボーヌ副伯のウード・ド・ボーヌがいる。

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