HISTORICAL PERSON · 1002年没

オットー3世 (神聖ローマ皇帝)

オットー1世の孫。3歳で王位を継ぎ、14歳で親政を始め、996年にローマで帝冠を受けた。古代ローマ帝国の復興を目指し、教師ジェルベールを教皇に据えたが、ローマの反乱で追われ21歳で没した。

生涯
1002年没
死亡地
イタリア共和国(ヴィテルボ県 / チーヴィタ・カステッラーナ)
出生地
ドイツ連邦共和国(ライヒスヴァルト)
出典
世界地図
イタリア共和国(ヴィテルボ県)

伝記

オットー3世は、ザクセン朝(オットー朝)第4代のドイツ王で、イタリア王を兼ね、996年に神聖ローマ皇帝として戴冠した。980年6月か7月に、アーヘンとナイメーヘンの間のどこかで生まれた。オットー2世と、東ローマ帝国の皇女テオファヌの一人息子であり、オットー1世の孫にあたる。ローマを首都とする古代帝国の復興を目指したが、果たせないまま、1002年に21歳で世を去った。

父オットー2世は南イタリアで東ローマ帝国やシチリアのイスラム勢力と戦い、982年に大敗した。翌983年、ヴェローナの帝国議会で3歳の息子を王に選ばせたが、同年12月7日にローマで急死した。幼い王は、同月のクリスマスに、マインツ大司教ヴィリギスらの手でアーヘンで戴冠した。スラヴ人の反乱や、南イタリアの問題を抱えて情勢は不安定で、王位を狙う親族も現れたが、母テオファヌが摂政としてこの難局を乗り切った。991年に母が没すると、祖母アーデルハイトが摂政を務め、994年、14歳で親政を始めた。

996年、教皇ヨハネス15世がローマ貴族の反乱で追放され、救援を求めたのを受けて、イタリアへ遠征した。教皇は4月初めに熱病で没したが、オットー3世はローマに入り、従軍司祭だった親族のブルーノを教皇グレゴリウス5世に選ばせ、5月21日、この教皇から帝冠を受けた。オーリヤックのジェルベールやプラハ司教アーダルベルトらを助言者に、フランクとギリシャの両ローマ帝国と教皇の権威を統合した普遍的な帝国を構想し、東ローマ宮廷の儀式の一部も取り入れた。母から古代ローマ帝国の理念を教え込まれたためとする説もある。

皇帝が去ると、ローマ貴族クレシェンティウス2世が反乱を起こして教皇を追放し、対立教皇ヨハネス16世を立てた。オットー3世は998年2月にローマへ戻り、対立教皇は鼻や耳を削がれるなどの刑を受けて、フルダ修道院へ移された。クレシェンティウスはサンタンジェロ城に立てこもったが陥落し、斬首された。皇帝は古代の宮殿があったパラティーノの丘に新しい宮殿を造り、自らを「イエス・キリストの下僕」「世界の皇帝」と称した。999年にグレゴリウス5世が急死すると、かつての家庭教師ジェルベールを教皇シルウェステル2世に据えた。1000年にはカール大帝の眠るアーヘンを訪れ、同じ年にポーランドの布教を支え、ステファン1世がハンガリー初のキリスト教徒の王として戴冠する際にも関与した。この間、南イタリアのガルガノ半島やガエータへ巡礼し、ガエータではロッサーノの聖ニルスに会い、聖ロムアルドから修道士になるよう勧められたともいう。ローマのティベリーナ島には聖堂を建て、聖アダルベルトの聖遺物を納めた。

1001年、ティヴォリの反乱の後始末をめぐってローマ市民が反乱を起こし、皇帝は教皇とともにラヴェンナへ退いた。1002年1月23日、軍を集めて再征服に向かう途中の、パテルノ城で没した。ちょうど東ローマの皇女である婚約者が、南イタリアのプッリャに上陸したころであった。死因はマラリアとされるが、毒を盛られたという説もある。独身で子はなく、又従弟のバイエルン公ハインリヒが跡を継いだ。遺体はアーヘンに葬られたが、現在は失われている。蔵書を集めて皇帝図書館の伝統を復活させた教養人で、グリム兄弟の『ドイツ伝説集』にも彼をめぐる伝説が載る。

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