伝記
オットー3世は、ザクセン朝(オットー朝)第4代のドイツ王で、イタリア王を兼ね、996年に神聖ローマ皇帝として戴冠した。980年6月か7月に、アーヘンとナイメーヘンの間のどこかで生まれた。オットー2世と、東ローマ帝国の皇女テオファヌの一人息子であり、オットー1世の孫にあたる。ローマを首都とする古代帝国の復興を目指したが、果たせないまま、1002年に21歳で世を去った。
父オットー2世は南イタリアで東ローマ帝国やシチリアのイスラム勢力と戦い、982年に大敗した。翌983年、ヴェローナの帝国議会で3歳の息子を王に選ばせたが、同年12月7日にローマで急死した。幼い王は、同月のクリスマスに、マインツ大司教ヴィリギスらの手でアーヘンで戴冠した。スラヴ人の反乱や、南イタリアの問題を抱えて情勢は不安定で、王位を狙う親族も現れたが、母テオファヌが摂政としてこの難局を乗り切った。991年に母が没すると、祖母アーデルハイトが摂政を務め、994年、14歳で親政を始めた。
996年、教皇ヨハネス15世がローマ貴族の反乱で追放され、救援を求めたのを受けて、イタリアへ遠征した。教皇は4月初めに熱病で没したが、オットー3世はローマに入り、従軍司祭だった親族のブルーノを教皇グレゴリウス5世に選ばせ、5月21日、この教皇から帝冠を受けた。オーリヤックのジェルベールやプラハ司教アーダルベルトらを助言者に、フランクとギリシャの両ローマ帝国と教皇の権威を統合した普遍的な帝国を構想し、東ローマ宮廷の儀式の一部も取り入れた。母から古代ローマ帝国の理念を教え込まれたためとする説もある。
皇帝が去ると、ローマ貴族クレシェンティウス2世が反乱を起こして教皇を追放し、対立教皇ヨハネス16世を立てた。オットー3世は998年2月にローマへ戻り、対立教皇は鼻や耳を削がれるなどの刑を受けて、フルダ修道院へ移された。クレシェンティウスはサンタンジェロ城に立てこもったが陥落し、斬首された。皇帝は古代の宮殿があったパラティーノの丘に新しい宮殿を造り、自らを「イエス・キリストの下僕」「世界の皇帝」と称した。999年にグレゴリウス5世が急死すると、かつての家庭教師ジェルベールを教皇シルウェステル2世に据えた。1000年にはカール大帝の眠るアーヘンを訪れ、同じ年にポーランドの布教を支え、ステファン1世がハンガリー初のキリスト教徒の王として戴冠する際にも関与した。この間、南イタリアのガルガノ半島やガエータへ巡礼し、ガエータではロッサーノの聖ニルスに会い、聖ロムアルドから修道士になるよう勧められたともいう。ローマのティベリーナ島には聖堂を建て、聖アダルベルトの聖遺物を納めた。
1001年、ティヴォリの反乱の後始末をめぐってローマ市民が反乱を起こし、皇帝は教皇とともにラヴェンナへ退いた。1002年1月23日、軍を集めて再征服に向かう途中の、パテルノ城で没した。ちょうど東ローマの皇女である婚約者が、南イタリアのプッリャに上陸したころであった。死因はマラリアとされるが、毒を盛られたという説もある。独身で子はなく、又従弟のバイエルン公ハインリヒが跡を継いだ。遺体はアーヘンに葬られたが、現在は失われている。蔵書を集めて皇帝図書館の伝統を復活させた教養人で、グリム兄弟の『ドイツ伝説集』にも彼をめぐる伝説が載る。
同じ年に亡くなった人物
- マンスール (後ウマイヤ朝宰相) (1002年没)
- ゴットフリート1世 (ヴェルダン伯) (1002年没)
- アリー・イブン・アッバース・アル=マジュシ (1002年(推定))
- イベリアのヨアネ (1002年没)
- イスマーイール・ブン・ハンマード・ジャウハリー (1002年)
同じ地域に関係する人物
- クレメンス4世 (ローマ教皇) (1268年没)
- Gianna Maria Canale (2009年没)
- ニコラウス3世 (ローマ教皇) (1280年没)
- アントニオ・マルゲリーティ (2002年没)
- エンニオ・ファンタスティキーニ (2018年没)