伝記
カトリーヌ・ド・ブルゴーニュは、前方オーストリアを治めたオーストリア公レオポルト4世の妃である。ドイツ語名はカタリーナ・フォン・ブルグントという。1378年4月の初めにモンバールで生まれ、同月26日に洗礼を受けた。ブルゴーニュ公フィリップ・ル・アルディと、フランドル女伯マルグリット3世の第5子で、次女にあたる。父方の祖父母はフランス王ジャン2世とボンヌ・ド・リュクサンブール、母方の祖父母はフランドル伯ルイ2世とマルグリット・ド・ブラバントである。兄のジャン・サン・プールはブルゴーニュ公となり、弟のアントワーヌはブラバント公、末弟のフィリップはヌヴェール伯とルテル伯となった。姉のマルグリットはバイエルン公ヴィルヘルム2世の妻、妹のマリーはサヴォイア伯アメデオ8世、のちの対立教皇フェリクス5世の妻になった。
1392年5月、ディジョンでカトリーヌとレオポルト4世の結婚契約が結ばれ、持参金としてフェレット伯領が与えられた。結婚式は1393年8月15日にウィーンで行われ、花嫁は15歳、花婿は22歳ほどだった。レオポルト4世は、レオポルト3世とヴィリディス・ヴィスコンティの子である。結婚にあたってカトリーヌは、夫から大幅に自立して暮らす権利を認められた。カトリーヌは両親の所領に隣接するアルザスに居を構え、ブルゴーニュ公爵家の代官にも見えるほど、実家の利益のために所領を経営した。このような政治姿勢は、地元のアルザスの貴族たちには悪感情をもって見られていたという。
1411年にレオポルト4世と死別した。2人の間に子供はなかった。カトリーヌは長く焦がれていた故郷へ帰った。夫の弟フリードリヒ4世がフェレット伯領を占領し、カトリーヌと甥のブルゴーニュ公フィリップ3世が交渉したが、実を結ばなかった。1414年ごろ、一説には1415年ごろに、マクシミリアン・シュマースマン・フォン・ラッポルトシュタインと再婚したが、この結婚にも子供はなく、1421年に離婚したともいわれる。
カトリーヌは、1425年または1426年の1月に亡くなった。没日は24日とも26日ともいわれ、没地はグレ=シュル=ソーヌの城とも伝わる。ブルゴーニュ公家の一族が眠るディジョン近郊のシャンモル修道院に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- ピッポ・スパーノ (1426年)
- トマス・ボーフォート (エクセター公) (1426年没)
- フーベルト・ファン・エイク (1426年没)
- シェモヴィト4世 (1426年没)
同じ地域に関係する人物
- イザベル・ド・ポルテュガル (1471年没)
- ジャン・ラプランシュ (2012年没)
- ジャン・マルエル (1415年没)
- ロベール1世 (ブルゴーニュ公) (1076年没)
- エルマンガルド=ブランシュ・ダンジュー (1076年没)