伝記
アゲシラオス2世は、エウリュポン朝のスパルタ王で、在位は紀元前400年から紀元前360年までである。生年は紀元前444年、あるいは紀元前445年から紀元前444年ともされ、確実なのは死んだ時に84歳だったことだけだという。父は王アルキダモス2世、母は二人目の妻エウポリアで、古代オリンピックで初めて優勝した女性キュニスカの兄弟であり、先王アギス2世の異母弟にあたる。生まれつき足が不自由だったが、7歳から課されるスパルタの厳しい教育課程を見事に修めた。この訓練を受けた王は少なく、のちに王となってから彼の威信を大いに高めたという。若いころは、貴族のリュサンドロスと親密な仲だった。
紀元前400年にアギス2世が死ぬと、アギスの子レオテュキデスと王位を争った。レオテュキデスは、アギスの妻とアルキビアデスとの不義の子だという噂があり、アギス自身が一時それを認める発言をしていたことから、この噂を利用して退けたのである。跛行の者は王になれないという古い神託を持ち出す反対もあったが、リュサンドロスが巧みに反論したと伝わる。こうして40歳で王位に就いた。意のままになる王を望んだリュサンドロスの働きかけも一因だったが、即位後は彼を遠ざけ、その目論見は外れた。
即位から間もなく、アケメネス朝ペルシアとの戦争を提案した。ネポスによれば、ペルシア王アルタクセルクセス2世がギリシア侵攻の準備をしているとの噂が動機だった。紀元前399年、解放されたヘロット2,000と同盟軍6,000を率い、アジアのギリシア都市をペルシアの支配から解放するとして小アジアへ渡った。コリントス、アテナイ、テバイは参加しなかった。エペソスに着くと、太守ティッサフェルネスは3か月の休戦を求め、その間に準備を整えてカリアに戦力を集めたが、アゲシラオスはフリュギアに侵攻して太守ファルナバゾスを破り、膨大な戦利品を得た。翌紀元前395年の春には再びリュディアに侵攻して勝利し、ヘスモス平原では歩兵に有利な場所へ敵を誘い込み、数で勝る敵を破った。ティッサフェルネスは責を問われて処刑された。
しかしペルシアの後任ティトラウステスがギリシア諸国の有力者に賄賂を渡して対スパルタ戦争を起こさせたとパウサニアスは伝える。これがコリントス戦争である。紀元前394年、本国に呼び戻された彼は、コロネイアの戦いでアテナイやボイオティアの軍を破った。その後スパルタはクニドスの海戦で大敗し、彼は再び剣を取った。紀元前391年のレカイオンの戦いでスパルタ重装歩兵がアテナイの軽装歩兵に敗れ、戦果は相殺された。紀元前387年のアンタルキダスの和約で戦争は終わった。
その後、テバイとの戦争が始まり、紀元前371年のレウクトラの戦いでは、共同統治者クレオンブロトス1世の軍がエパメイノンダス率いるボイオティア軍に敗れ、スパルタは覇権を失った。それでも彼は城壁のないスパルタを守り抜いた。紀元前362年のマンティネイアの戦いではエパメイノンダスが戦死し、テバイも覇権を保てなくなった。紀元前361年には財政を立て直すためエジプトへ渡り、王ネクタネボ2世の即位を助けて220タラントを受け取ったが、帰路にキュレナイカで客死した。遺体は蝋で保存されてスパルタに運ばれ、そこで葬られた。王位は子のアルキダモス3世が継いだ。低身長で痩せ、片足が不自由だったが、勇気と節制、用兵の才で称賛され、贈り物を自宅に持ち帰らず質素な暮らしを守った。友人のクセノフォンは彼に心酔し、伝記『アゲシラオス』を著した。
同じ年に亡くなった人物
- フィロタス (太守) (紀元前 360年(推定))
- Androsthenes of Thasos (紀元前360)
- コリントのライス (紀元前 360年(推定))
- アンニケリス (紀元前360)
- アンティステネス (紀元前360年代没)
同じ地域に関係する人物
- アルケシラオス3世 (紀元前600)
- Battus I of Cyrene (紀元前600)
- Arcesilaus II of Cyrene (紀元前600)
- バトス3世 (紀元前600)
- キュレネのラキュデス (紀元前204)