伝記
ムハンマド・ブン・イドリース・シャーフィイーは、西暦767年に生まれ820年に没したイスラーム法学者である。ヒジュラ暦では150年から204年にあたる。スンナ派法学の四人の偉大なイマームの一人とされ、しばしば「シャイフル・イスラーム」と呼ばれる。その教えを受け継いだ弟子たちは、シャーフィイー法学派というマズハブを形成した。生涯をたどるのは難しく、現存する最古の伝記は逸話の寄せ集めで、荒唐無稽なものも含む。
シャーフィイーはクライシュ族に属するムッタリブ家の出で、預言者ムハンマドやアッバース朝カリフの属するハーシム家とは、さらに父系をさかのぼった先で共通の先祖を持つ。この出自が威信を与えたようで、貧しい育ちながら社会の上層とのつながりを持った。ガザで生まれたが、父イドリースは幼いころにシャーム地方で亡くなり、母は名門の血統が活かされなくなることを恐れて、2歳の子をメッカへ連れて移り住んだ。子ども時代のことはほとんど知られていないが、経済的に苦しかったことと、幼いころから学問に没頭していたことはよく知られている。メッカのムフティーであったザンジーに学び、7歳までにクルアーン全部を暗誦し、10歳でマーリク・ブン・アナスの著作をすっかり暗記した。師の留守には代わりに講義をするよう命じられ、15歳でファトワーを出す権限を与えられたという。
その後マディーナへ遊学し、マーリクに弟子入りして何年も共に学んだ。795年ごろにマーリクが亡くなったとき、シャーフィイーはすでに法学者として高い評判を得ていた。のちにマーリクの見解に異を唱えたが、常に「師匠」と呼んで敬意を示した。30歳のころ、アッバース朝によりイエメンのナジュラーンの代官に任じられ、公正な為政者であることを示したが、党派争いに巻き込まれ、シーア派の反乱を助けた廉で803年に逮捕された。鎖につながれたままカリフの御座所ラッカへ呼び出されたが、一説には見事な弁明でハールーン・アッ=ラシードに無罪を確信させたといい、別の一説では、宮廷にいたハナフィー派法学者シャイバーニーのとりなしで救われたという。この事件がきっかけでシャイバーニーと親しくなり、その弟子となった。以後は法学研究に生涯を捧げ、二度と仕官の道を探さなかったのは、この事件が原因だと考えられている。
バグダードでは、シャイバーニーらアブー・ハニーファの弟子たちと学び、ハナフィー派との議論でマーリキー派の立場を活発に擁護した。804年にバグダードを去ってメッカへ戻り、聖なるモスクで講義をして、多くの弟子に深い印象を残した。その一人がハンバル法学派の学祖イブン・ハンバルである。810年には独立した一派をなすほどの名声を得て、カリフのマアムーンからバグダードに呼ばれ、カーディーになるよう求められたが、固辞した。814年にはバグダードを去ってエジプトへ向かったが、その理由ははっきりしない。エジプトでは師のサイイダ・ナフィーサに出会い、学びの費用の援助を受けた。重要な著作の多くは、このエジプトでの口述の講義を高弟が書き取り、師の前で読み上げて添削を受けたものとみられる。
820年1月20日、エジプトのフスタートで亡くなった。死因には、議論に負けたマーリキー派の男の仲間に襲われた傷によるとの伝えと、晩年の腸の病によるとの説があり、はっきりしない。のちに墓を中心に霊廟が建てられ、現在も参拝が絶えない。シャーフィイーは啓示と預言者の言行という典拠を法学に一致させ、シャリーアの体系化を進めた。著作は100点以上ある。
同じ年に亡くなった人物
- テオドロス・アブー・クッラ (820年代没)
- ヴェルフ1世 (アルトドルフ伯) (820年代没)
- シャンカラ (820年)
- 憲宗 (唐) (820年没)
- レオーン5世 (820年没)
同じ地域に関係する人物
- サイイド・クトゥブ (1966年没)
- アーディド (1171年没)
- ブトロス・ガーリー (1910年没)
- ハサン・アル=バンナー (1949年没)
- イブン・ハイサム (1040年没)