伝記
ハサン・アル=バンナーは、1906年10月14日、ナイル・デルタのブハイラ県マフムーディーヤに生まれた。エジプトの教育者でありイマームであり、のちにムスリム同胞団を創設した人物である。父はハンバル派のイマームでモスクの教師を務め、ムスリムの伝統に関する著述を行う一方、腕時計や蓄音機を修理する店を営んでいた。一家は信仰に厚く、生活は豊かとはいえなかった。少年はコーランを早くに暗記し、12歳のころからスーフィズムの教団に出入りするようになった。1919年に英国の支配に反対する独立運動が高まると、13歳ながら集会に加わり、政治的な小冊子を出し、青少年の改革団体をつくるなどして活動したと伝えられる。
1920年代には経済的な苦境のために故郷での暮らしを保てなくなり、一家は1924年にカイロへ移った。バンナーはカイロで4年間、教員養成のための近代的な学校ダール・アル=ウルームで学んだ。父の考え方とは相容れない面のある学校だったが、あえて進学したとされる。また、ラシード・リダが主宰する雑誌『マナール』にも影響を受けたという。そのうえで、イスラーム青年協会などにも関わって、イスラーム系の雑誌に15本を超える記事を寄せた。1927年に卒業すると、スエズ運河に近い北東部の町イスマイリアの国立学校に教師として赴任した。
1928年3月、バンナーは「イスラームのために奉仕するムスリムの同胞たち」としてムスリム同胞団を立ち上げた。当初は、同じ時期に数多く生まれていた慈善や信仰のための小さな集まりと変わらなかったが、急速に広がり、1932年に本部をカイロへ移すと会員は大きく増えた。バンナーは、イスマイリアではカフェの中でも説教を行うなど、人々のなかに入って教えを説いた。また、人々に受け入れられやすいように主張を修正していったとされる。同胞団は農民や労働者のもつ価値観を生かそうとし、既存の社会を壊す道は採らなかった。これが成功の理由とされる。多くの医院や学校がつくられた。その一方で、スエズ運河会社の外国人社員や英国兵からは露骨な敵意を向けられた。バンナーは1924年に廃止されたカリフ制の復活を唱え、その思想は、国家よりもイスラーム共同体としての団結を重んじ、信仰を私的な領域にとどめずに国家の基礎にすることを主張するものだった。
1948年から翌年にかけて、同胞団はパレスチナ戦争に義勇兵を送った。このころエジプト王国の政府との対立は激しくなり、同胞団がクーデターを企てているという噂が広まった。1948年12月、首相ヌクラーシーは同胞団に解散を命じて資産を押収し、数十人の会員が投獄された。同月28日、ヌクラーシーは同胞団の会員に暗殺された。バンナーはただちに、テロはイスラームの教えに背くと述べてこの行為を非難した。しかし翌1949年2月12日、バンナーは政府側の人物との話し合いに義弟とともに出向いた。相手が現れないため、帰宅しようとタクシーを待っていたところを、二人組の男に射殺された。42歳だった。末弟は思想家で著述家のジャマール・アル=バンナー(1920年〜2013年)で、孫はオックスフォード大学のイスラーム神学者として知られている。
同じ年に亡くなった人物
- レオノール・ミカエリス (1949年没)
- ハーヴェイ・アレン (1949年没)
- ヴァルター・ブーフ (1949年没)
- グリゴラシュ・ディニク (1949年没)
- アウロラ・ケソン (1949年没)
同じ地域に関係する人物
- Fathi Arafat (2004年没)
- イッズッディーン・アイバク (1257年没)
- モハメド・アブデルワハブ (2006年没)
- ハッサン・ファトヒー (1989年没)
- ワシフィ・アル・タル (1971年没)