伝記
イブン・ハイサムは、イスラーム圏の数学者、天文学者、物理学者、医学者、哲学者、音楽学者である。965年にバスラで生まれ、1040年に没した。ラテン名アルハゼンでも知られ、光学の諸原理の発見と科学実験の手法の発展に貢献して、「光学の父」とも呼ばれる。フルネームはアブー・アリー・アル=ハサン・イブン・アル=ハサン・イブン・アル=ハイサムという。「イブン・アル=ハイサム」は実父の名ではなく、数代前の祖先の名にちなむ家名にあたる。本名をムハンマドとする異説もある。バスラの出身であることから、アル=バスリーとも呼ばれた。
伝記には不明な点が多い。アッバース朝時代のバスラに生まれ、父は官吏で、息子に地元で十分な教育を受けさせたという。バグダードで学業を修め、バスラで裁判官となったが、当時吹き荒れていた宗教対立や抗争の中で職を辞し、学者の道に転じた。父方のおじから医学を学び、医師兼官吏として宮廷に仕えたともされる。
イラクかシリアにいた頃に、ナイル川の止水堰の構想が伝わり、ファーティマ朝のカリフ、ハーキムに招かれてカイロへ移り、そのまま生涯を過ごしたと見られる。後世の伝記によれば、ハーキムは学芸を保護する一方、冷酷な奇人としても知られた人物であった。彼は、アスワンに堰を作れば、氾濫期か渇水期かにかかわらず水を供給できるという科学的見解を明らかにしたと伝えられていた。ハーキムは彼をカイロ郊外に迎え、住居や警護を用意し、公的な地位も与えた。ところが、技術者らとナイル川を遡って現地調査を行うと、古代エジプトの遺跡の技術力、アスワン付近の難しい地形、故郷のティグリス川やユーフラテス川とは異なる荒々しい流れを目にして、机上で立てた構想は当時の技術では実現できないと悟ったとも伝えられる。
アスワンから戻った彼はハーキムに謝罪した。ハーキムは彼を処刑も追放もせず、謝罪を受け入れて、改めて相応の公職を与えた。これについては、他国の為政者にその才能を使わせないために手元に置いたのではないかとする説がある。しかし、ハーキムの真意は分からないと考えた彼は、気まぐれで殺されることを恐れ、イスラーム法上責任を問われず死刑を免れる狂人のようにふるまうことにしたという。公職を剥奪され、財産や書籍も没収されて、ハーキムが1021年に謎の死を遂げるまで、およそ10年にわたり自宅軟禁が続いた。カリフの死後にようやく正気に戻ったふりをし、学究生活を公然と行うようになった。アズハルモスクのそばに転居してアズハル学院で講義を行い、弟子も育ち、エウクレイデスやプトレマイオスの書物の写本や翻訳で生計を立てながら研究に没頭した。
軟禁の期間に、光学、数学、物理学、薬学などに関する多くの書物を著した。著作のリストには200弱の題名があり、60程度が写本または断片として現存する。特に重要な『光学の書』(1015年〜1021年)は、12世紀末から13世紀半ばの間にラテン語に訳された。古代には、視線が眼から放たれて対象に届くとする外送理論が多数派であったが、彼は光が物体の色を眼に届けるという新しい理論を打ち出し、実験を効果的に用いてこれを裏づけた。この研究は、後世の光学に決定的な影響を与えた。
同じ年に亡くなった人物
- ダンカン1世 (スコットランド王) (1040年没)
- マヌーチヒリー・ダームガーニー (1040年)
- ウンベルト1世 (サヴォイア伯) (1040年代没)
- アショト4世 (1040年没)
- フルク3世 (アンジュー伯) (1040年没)
同じ地域に関係する人物
- イッズッディーン・アイバク (1257年没)
- アフマド・イブン・アラブシャー (1450年没)
- ナースィル・ハサン (1361年没)
- Az-Zahir Sayf ad-Din Khuchqadam (1467年没)
- ジャウハル (992年没)