伝記
憲宗は、唐の第14代皇帝である。順宗の長男で、名は李純という。778年、曾祖父の代宗の時代に、のちの徳宗である祖父李适が皇太子であった東宮で生まれた。母は順宗の側室の王氏である。5、6歳のころ、すでに皇帝となっていた徳宗が膝に抱いて「おまえは何者で朕の膝にいるのか」と尋ねると、「第三世の天子です」と答え、徳宗を驚かせて以後深く寵愛されたという。788年に広陵王となり、793年には郭子儀の子の郭曖と代宗の娘の昇平公主とのあいだに生まれた郭氏を妃に迎えた。父の順宗は在位1年に満たず、805年のうちに帝位を子に譲っている。
804年、順宗は脳卒中で言葉を失った。805年の春に徳宗が重病となり、見舞いにも来られない順宗を案じながら世を去ると、宦官たちははじめ別の人物を擁立することを考えたが、学士の衛次公や鄭絪が反対し、順宗が即位した。その際、李純を直接帝位に就ける案も話に出たという。病の順宗に代わって、宦官の李忠言、側室の牛昭容、学士の王叔文と王伾、宰相の韋執誼らが政治を動かしたが、彼らは李純の聡明さと決断力を恐れ、当初は立太子を見送った。しかし徳宗に重んじられながら新政権で力を失った宦官の俱文珍らが学士を宮中に集めて立太子の詔を起草させ、鄭絪が「太子は長子であるべきです」と書いた紙を示すと、順宗はうなずいた。こうして805年の晩春に李純は皇太子となり、名も淳から純に改められた。王叔文らは盧倫を侍読として李純に近づけようとしたが、李純は王叔文らを嫌い、盧倫が政治の話を持ち出すたびに「陛下は経書を教えよと命じられたのに、なぜほかのことを論じるのか」と怒って答えたという。夏には、王叔文と対立していた節度使の韋皋らが李純の摂政を求める上表を行い、8月に摂政の詔が、続いて譲位の詔が出され、李純は即位した。
即位した憲宗は、節度使の勢力を抑えることに力を注いだ。宦官に対抗するために杜黄裳を登用し、命令に従わない節度使には兵を向けた。806年に劉闢や楊恵琳を、807年に李錡を破り、813年には魏博の田興が服属した。同じ年に王承宗を破れず挫折もあったが、817年には淮西の節度使を討ち、李師道の敗北と王承宗の服従を経て、天下はふたたび朝廷の統制下に入ったとされる。儒者の臣を藩帥に任じ、監察役の監軍には宦官を置いて節度使の動静を見張らせる制度も始めた。武元衡や李吉甫といった名臣にも恵まれ、増強した禁軍を活用した結果、反抗的だった河朔三鎮も服従を誓い、衰えた唐は一時の中興を迎えた。後世、この治世は元和の中興と呼ばれる。
だが、皇太子に立てた長男の鄧王李寧(恵昭太子)が19歳で早世すると、憲宗は悲しみから仏教や道教にのめり込んだ。法門寺の仏舎利を長安に迎える計画を立て、韓愈が「論仏骨表」で諫めたのも退け、莫大な国費を使って供養を行った。さらに丹薬を乱用し、宦官を虐待するなど精神の異常をきたしたといわれる。820年、宦官の王守澄や陳弘志らに暗殺され、43歳で没した。妃の郭氏と、その子で三男の李恒がかかわったのではないかという疑いも残ったが、証明されていない。治世は藩鎮の力を一時的に抑えた一方で、宦官の勢力が伸びた時代でもあった。三男の李恒は第15代の穆宗として、十三男の李忱は第19代の宣宗として、のちに即位している。子には、このほかに六男の絳王李悟、九男の瓊王李悦などがいた。
同じ年に亡くなった人物
- シャンカラ (820年)
- ムハンマド・ブン・イドリース・シャーフィイー (820年没)
- テオドロス・アブー・クッラ (820年代没)
- ヴェルフ1世 (アルトドルフ伯) (820年代没)
- レオーン5世 (820年没)