伝記
マンスールは、アッバース朝の第2代カリフ(在位754年〜775年)である。本名はアブー・ジャアファル・アブドゥッラー・イブン・ムハンマドで、マンスールは即位後に名乗った称号であり、「勝利者」「神の助けを受ける者」を意味する。預言者ムハンマドの叔父アッバースの4代目の子孫にあたり、アッバース家の家長ムハンマドとベルベル人の奴隷サッラーマの子として、ヨルダン南部のフマイマ村に落ち着いた一族のもとに生まれた。生年は712年から714年のいずれかとされる。
父や兄がウマイヤ家の打倒をめざして各地にダーイー(宣教員)を送るなか、前半生には不明な点が多いものの、744年の反乱に参加したと伝えられる。748年に兄イブラーヒームが投獄されると、弟アブー・アル=アッバースらとともにクーファへ避難した。749年にホラーサーンで挙兵したアブー・ムスリムがクーファに入り、アブー・アル=アッバース(サッファーフ)がカリフに推戴されると、翌750年に新王朝が正式に成立した。アブー・ジャアファルは将軍ハサン・ブン・カフタバとともにワーシトを11か月にわたって包囲し、ウマイヤ朝のイラク総督ヤズィードを降した。ヤズィードの処刑には当初反対したが、押し切られて実行したという。その後はジャズィーラ地方の統治を任された。
754年、巡礼団の総指揮を務めた帰路、アンバールでサッファーフの訃報に接してカリフ位の継承を宣言した。ベルベル人の女奴隷の子がカリフとなるのは前例がなく、この即位はアラブ純血主義を打破する契機になったとされる。叔父アブドゥッラー・イブン・アリーが即位に反対してカリフを自称すると、マンスールはアブー・ムスリムの軍を頼ってこれを退けた。しかし、その後はアブー・ムスリムを最大の脅威と見なすようになり、留め置いた天幕で罪を責めたうえ、潜ませた従者に殺害させた。訃報がホラーサーンに届くと、スンバーズを指導者とする復讐の蜂起が起きたが、討伐隊に撃破された。しかし司令官ジャフワルはホラーサーンの富を見て変心し、自らも反乱を起こしたため、これを討ってようやく東方に安定がもたらされた。
国内外の情勢も落ち着かなかった。756年には将軍ハーズィムの活躍でジャズィーラのハワーリジュ派の反乱を鎮め、東ローマ帝国とは7年の和約を結んで国境に要塞を築き、破壊されたマラトヤを再建させた。758年にはラーワンド派の信奉者がハーシミーヤの宮殿に押し寄せる事件が起き、覆面で戦った元ウマイヤ朝の将軍マアン・ブン・ザーイダに救われた。マンスールは彼をヤマンの総督に任じ、この事件以後は宮殿の入り口に常時馬を繋がせたという。マグリブではイバード派のベルベル人が抵抗を続け、762年にホラーサーン軍がアブル=ハッターブの反乱を鎮圧したものの、逃れたイブン・ルスタムはルスタム朝を建てた。759年にはタバリスターンとギーラーンを支配下に組み込み、ダイラムの侵入も撃退した。シーア派に対しても圧迫を加え、758年の反乱を鎮めるとともに、アリーの長子ハサンの曾孫にあたるムハンマドとイブラーヒームの兄弟の逮捕を命じたが、二人はすでに逃走していた。771年にはアブー・ハーティムがアッバース朝の支配に対する蜂起を指導している。
775年10月7日に没した。首都バグダードの建設を最大の功績とし、ウマイヤ朝の官僚制度と地方行政を踏襲・整備して支配体制を確立したため、王朝の実質的な創始者と見なされている。以後のカリフはすべて彼の直系子孫であり、孫のハールーン・アッ=ラシードとともに、西アジア世界でよく知られたカリフである。
同じ年に亡くなった人物
- Lebuinus (775年)
- Imam Zufar (775年没)
- 吉備真備 (775年没)
- コンスタンティノス5世 (775年没)
同じ地域に関係する人物
- Al-Fudhayl bin 'Iyyadh (803年没)
- アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード (1953年没)
- アスマー・ビント・アビー・バクル (692年没)
- ファズラー・ラーマン・カーン (1982年没)
- Mughira ibn Shu'ba (671年没)