HISTORICAL PERSON · 775年没

吉備真備

奈良時代の学者・公卿。遣唐使として18年間唐で学び、経書や天文暦書など多くの典籍を持ち帰って皇太子の教育にもあたった。

生涯
775年没
死亡地
—
出生地
日本(岡山県 / 真備町)
出典
世界地図
日本(岡山県)

伝記

吉備真備は、奈良時代の公卿・学者である。氏姓は下道朝臣、のち吉備朝臣となった。右衛士少尉・下道圀勝の子で、持統天皇9年(695年)に備中国下道郡(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に生まれた。下道氏は下道国造の流れをくみ、稚武彦命の子孫とされる氏族である。霊亀2年(716年)に第9次遣唐使の留学生に選ばれ、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らとともに入唐した。

唐での留学は18年に及び、経書・史書のほか天文学・音楽・兵学など幅広い学問を修めた。年齢が学令の規定に合わず、正規の学校に入れなかった可能性が高いともいわれ、苦学を強いられたと思われる。『続日本紀』は、唐で名を上げた留学生は真備と仲麻呂の二人だけだったと記す。天平6年(734年)に玄昉と同船で帰途につき、種子島に漂着したのち、翌年4月に多くの典籍を携えて帰朝した。『唐礼』『大衍暦経』、日時計、楽器、『楽書要録』、弓矢などを献上している。従八位下から一挙に十階昇って正六位下となり、大学助に任ぜられた。朝廷が留学の成果を高く評価していたことがうかがえる。

橘諸兄が政権を握ると真備は玄昉とともに重用され、天平12年(740年)には二人を除こうとした藤原広嗣が大宰府で反乱を起こして敗死した。真備は東宮学士となり、天平15年(743年)に従四位下・春宮大夫兼春宮学士に叙されて、皇太子・阿倍内親王に『漢書』『礼記』などを教えたという。ところが藤原仲麻呂が台頭すると、天平勝宝2年(750年)に筑前守、次いで肥前守へ左遷された。広嗣の残党の再反乱を防ぐためとも、広嗣の怨霊を鎮めるためともいう。翌年には第12次遣唐使の追加の副使に任ぜられ、天平勝宝4年(752年)に再び入唐した。帰途は屋久島に漂着し、紀伊国を経て無事帰朝したが、大使の藤原清河や仲麻呂の船は唐に戻された。

帰朝後も中央には戻れず、天平勝宝6年(754年)に大宰大弐として九州へ下った。新羅との緊張が高まるなか、怡土城を築き、新羅征討の計画にも深く関わった。天平宝字3年(759年)には大宰府から防備に関する四ヶ条を言上し、天平宝字5年(761年)には西海道節度使に任ぜられた。天平宝字8年(764年)に藤原仲麻呂の乱が起こると、緊急に参議に叙されて孝謙上皇側につき、中衛大将として追討軍を指揮し、仲麻呂の退路を断つなどして鎮圧に功を挙げた。

乱後は昇進を重ね、天平神護2年(766年)に従二位・右大臣となり、左大臣・藤原永手と並んで太政官を導いた。地方豪族の出身としては破格で、学者から大臣に至ったのは、近世以前では真備と菅原道真だけである。神護景雲3年(769年)には刪定律令24条を制定させた。称徳天皇の没後は白壁王(のちの光仁天皇)の立太子が実現したが、真備が文室浄三、次いで文室大市を推したとする後世の話は、『続日本紀』になく、作り話とする説が強い。光仁天皇の即位後、辞職を願い出て、宝亀2年(771年)に許された。宝亀6年(775年)10月2日に81歳で亡くなった。著書に『私教類聚』などがあり、釈奠の整備にも当たり、天平20年(748年)にはその儀式服制の改定を行った。唐では書を張旭に学び、帰朝後に晋唐の書を広めたという。真備がもたらした大衍暦は、準備に30年近くを要したのち、764年に儀鳳暦に替えて用いられ始めた。奈良教育大学の構内には墓と伝えられる吉備塚がある。

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