伝記
アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードは、1876年に生まれ、1953年11月9日に没した、初代サウジアラビア国王である。ワッハーブ派のイマームでもあり、1902年からその座にあった。生まれたサウード家は、アラビア中部のリヤド周辺にまで勢力が縮み、北方のジャバル・シャンマル王国のラシード家に実権を奪われていた。ワッハーブ派イマームだった父は、ラシード家の勢力をリヤドから追い払うことに失敗し、1891年に一族とともに放浪の末にクウェートへ亡命した。これで、分裂して衰えていた第二次サウード王国は完全に滅んだ。
亡命先のクウェートで、のちに大首長となるムバーラクはこの若者の才能に目をつけ、教育を施して秘書にしたという。ムバーラクはサウード家に好意的だったとも伝えられる。1901年、アブドゥルアズィーズはムバーラクとラシード家との戦いに加わり、別働隊としてリヤドの攻略を受け持ったが、本隊が大敗したため落とせなかった。翌1902年、22歳のときに、40人の兵でマスマク城に拠っていたアジュラーン総督を討ち取り、リヤドを奪還した。2メートルの大男で怪力の持ち主だったともいわれ、武勇にも秀でていた。
1914年に第一次世界大戦が始まると、連合国側のイギリスに協力して力を蓄えた。1919年にはラシード家を陰で支援するクウェートの首長に業を煮やしてクウェートへ侵攻しようとしたが、イギリスが空軍を派遣してけん制したため、あきらめている。イギリスはサウード家の拡大に全面協力したわけではなかったが、彼はイギリスとの戦力差をわきまえて反抗しなかった。1920年にはイギリスの支援を背景に中部アラビアを支配下に置き、1921年にラシード家を滅ぼした。1925年にはヒジャーズ王国をハーシム家から奪い、1927年にはイギリスとジッダ条約を結んでナジュド王国の独立を認めさせた。1931年にナジュド及びヒジャーズ王国の建国を宣言し、翌1932年に国名をサウジアラビア王国と改めた。
建国後は、石油が国の基盤を変えた。1924年のホームズ少佐への利権付与に始まり、石油利権は米国の会社へ移って、アメリカとの関係が深まった。1938年にはサウジアラビア初の油田が発見され、メッカとメディナの巡礼に代わる財源を確保した。第二次世界大戦では連合国側の一員として行動し、1945年2月、ヤルタ会談から戻る途中のルーズベルト大統領とスエズ運河に停泊中の米巡洋艦上で会見した。同年にアラブ連盟に加盟し、1948年のパレスチナ戦争ではサウジ軍を派遣したものの、米英の了解のない紛争には深入りしない方針だった。国内では最も厳格で復古主義的とされるワッハーブ派を国教と定めた。盗みには手首を切り落とす刑罰を課し、アメリカ人から改めるよう言われても改めなかったという。
アラブ社会で有力部族との血縁を重んじた彼は、部族長の娘たちに子を産ませるため、100回以上の結婚を余儀なくされたとされる。子は89人とされ、後継のサウード、ファイサル、ハーリド、ファハド、アブドゥッラーも国王となった。1953年11月9日、狭心症で77歳の生涯を閉じた。500リヤル紙幣には彼の肖像が使われている。
同じ年に亡くなった人物
- アラン・カーティス (1953年没)
- フランチェスコ・サヴェリオ・ニッティ (1953年没)
- 徐悲鴻 (1953年没)
- グジェゴシュ・フィテルベルク (1953年没)
- ミラード・ミッチェル (1953年没)
同じ地域に関係する人物
- Juhayman al-Otaybi (1980年没)
- ファドル・イブン・アッバース (639年没)
- Mughira ibn Shu'ba (671年没)
- アスマー・ビント・アビー・バクル (692年没)
- Sufyan ibn `Uyaynah (814年没)