伝記
ムギーラ・ブン・シュウバは、預言者ムハンマドの教友の一人で、「アラブの四人の知恵者」の一人に数えられた人物である。671年に没した。アブー・アブドゥッラー・アル=ムギーラ・ブン・シュウバ・アッ=サカフィーとも呼ばれ、タイフを本拠とするサキーフ族の出身である。タイフを出て各地を巡り、最後はクーファ総督として世を去った。父はシュウバ・ブン・アビー・アーミルで、サキーフ族のバヌー・ムアッティブ氏に属した。この氏族は、イスラーム以前に信仰された多神教の女神アッラートの神殿を代々守る家柄だった。叔父のウルワ・ブン・マスウードもムハンマドの教友である。ムギーラは旅の道連れを眠っている間に襲って金品を奪ったためタイフを追われ、メディナのムハンマドのもとに身を寄せて仕えた。ムハンマドは彼の助けを得て、サキーフ族にイスラームを受け入れさせたとされる。628年4月、クライシュ族に阻まれたフダイビーヤでの巡礼未遂にも加わった。630年にタイフがイスラームの支配に服すると、アッラートの神殿を取り壊す役目を任された。
ムハンマドの死後、初代カリフのアブー・バクルのもとでも行政の職にとどまった。当時の高官の地位は、ムハンマドとカリフの出身であるクライシュ族が占めるのが通例だった。ムギーラは軍務を続け、636年8月のヤルムークの戦いで片目を失った。カリフのウマルは彼をバスラの総督に任じた。ペルシア征服の足場として新たに築かれた軍営都市である。しかし姦通の嫌疑をかけられて解任された。伝統的な記録には、彼が300人、700人、あるいは1000人の女性と結婚と離婚を重ねたとするものもある。
642年、ウマルは彼をイラクのもう一つの軍営都市クーファの総督に改めて任命し、アンマール・ブン・ヤーシルの後任とした。2年後、かつてムギーラの奴隷だったアブー・ルアルアが、礼拝中のウマルをメディナで暗殺した。次のカリフのウスマーンは彼をさらに1年その職に留めたのち、サアド・ブン・アビー・ワッカースと交代させた。656年にウスマーンが暗殺されてアリーがカリフとなると、ムギーラは公職を離れてタイフへ戻った。クーファを都としたアリーと、これに反対するクライシュ族の多数との第一次内乱を、故郷から眺めていたのである。657年、スィッフィーンの戦いの決着をアリーとシリア総督ムアーウィヤが調停に委ねたとき、ムギーラはどちらからも招かれないままウドゥルフの会談に出向いた。
661年、アリーの暗殺後の混乱のなかで、ムギーラはムアーウィヤの名を使って、自分に巡礼の指揮を委ねる書簡を偽造したともいわれる。ムアーウィヤは同年、ウマイヤ朝のカリフとして彼を再びクーファ総督とした。この二度目の統治では、カリフからほぼ独立して治めた。クーファの有力なアリー派とは比較的穏やかな関係を保ち、双方の共通の敵であるハワーリジュ派に対抗させたという。
ムギーラは668年から671年のあいだにペストで没した。70歳だったとされる。歴史家のワーキディー(823年没)とマダーイニー(843年没)は、670年の8月か9月と伝える。後継には自らが育てたズィヤード・ブン・アビーヒが就いた。のちの694年にイラク総督となったハッジャージュ・ブン・ユースフは、同じサキーフ族の出身であることを理由に、ムギーラの息子たちを副総督に取り立てた。ムタッリフはマダーイン、ウルワはクーファ、ハムザはハマダーンを任された。
同じ年に亡くなった人物
- グリムヴァルト (671年没)
- ガリバルド (671年)
- Sa'id ibn Zayd (671年)
同じ地域に関係する人物
- 馬歩芳 (1975年没)
- ストモ (1981年没)
- ムハンマド・アルガザーリー (1996年没)
- イスラームにおけるイスマーイール (紀元前1800)
- ミドハト・パシャ (1884年没)