伝記
コンスタンティノス5世は、718年にコンスタンティノープルで生まれ、775年9月14日に没した東ローマ帝国イサウリア王朝の第2代皇帝である。在位は741年から775年まで。父は同王朝の初代皇帝レオーン3世、母はマリアである。720年の復活祭には、2歳で父の共同皇帝とされ、総主教ゲルマノス1世によって戴冠された。皇帝の座は理論上、ときに実際にも選挙で決まるもので、世襲とは限らなかったため、現皇帝が子を共同皇帝としておくことで、後継を確かなものにしたのである。726年に父が出した法典「エクロゲー」も、父子の連名によるものとされる。妻は、帝国の重要な同盟者であったハザールの可汗の娘チチャクで、732年に洗礼を受けてエイレーネーと名を改めた。
741年に父が死去して単独の皇帝となったが、即位の直後に、姉アンナの夫である義兄弟アルタバスドスが反乱を起こした。この反乱は742年のことともされるが、誤りであることが示されている。アルタバスドスは軍管区オプシキオンの将軍で、コンスタンティノスは危うく難を逃れ、アモリオンに避難して現地の兵に迎えられた。アルタバスドスは都に進んで皇帝を名乗ったが、イコンを擁護する政策をとったため、小アジアの支持を得られなかった。743年5月、サルディスでコンスタンティノスがこれを破り、3か月後にはアルタバスドスの子ニケタスも破って、同年11月に都へ入り、皇帝に復位した。反対者の多くは盲目にされるか処刑され、アルタバスドスとその子らも公衆の前で目をつぶされ、修道院に閉じ込められた。記録には、癲癇か癩病かとも言われる持病への言及があり、治世の初めには反乱側が、これを皇帝としての適性を疑う材料に使った可能性がある。
軍事の手腕に優れ、ウマイヤ朝の衰退に乗じて北シリアまで兵を進め、アルメニアやメソポタミアでも大勝して東方の主導権を握った。ついで帝国北西部の国境をたびたび侵していたブルガリアへ9度も自ら遠征し、多くの勝利を収めた。ただし東方やブルガリアに力を割かねばならなかったため、751年には北イタリアに残る最後の帝国領ラヴェンナをランゴバルド族に奪われた。これでユスティニアヌス1世以来のイタリア中・北部の支配は終わり、ローマ教皇庁は帝国から離れ、自立を図るようになった。教皇ステファヌス2世が救援を求めた際には、古くからの政策にならって、ほかのゲルマン系の部族をランゴバルドにぶつけるよう助言できただけだったとされる。アラブとの国境地帯からキリスト教徒をトラキアへ移住させる政策も進め、バルカンの領土の支配を固めた。皇帝直属の中央軍タグマを編成したのも、彼の功績とされている。
内政では、父の始めた聖像破壊運動を一層推し進め、反対する聖職者を厳しく弾圧し、処刑した。このためイコンを擁護する側の著述家に「コプロニュモス」(糞の名の者)と呼ばれるようになった。これは、幼児洗礼のとき洗礼盤に大便を漏らしたという噂によるものである。それでも数々の戦勝により、同時代の民衆や軍からは軍神のごとく称えられたという。775年、ブルガリア遠征の途上で陣没し、問題を最終的に解決することはできなかったが、ブルガリアを疲弊させることには成功した。811年にニケフォロス1世がブルガリアとの戦いで戦死した際、敗北の知らせを聞いた首都の住民は、かつてブルガリアに勝った彼の墓に詰め寄り、生き返って国家の危機を救ってほしいと懇願したという。
同じ年に亡くなった人物
- Imam Zufar (775年没)
- マンスール (775年没)
- Lebuinus (775年)
- 吉備真備 (775年没)
同じ地域に関係する人物
- ネズィヘ・ムヒッディン (1958年没)
- テオファノ・マルティナキオス (897年没)
- Gregory VI (1881年没)
- マルキアヌス (457年没)
- アブデュルハリク・レンダ (1957年没)