HISTORICAL PERSON · 紀元前404年没

ダレイオス2世

アケメネス朝ペルシアの王で、本名はオコス。父王の死後、兄弟との継承争いに勝って即位し、「庶子王」と呼ばれた。

生涯
紀元前404年没
死亡地
イラク共和国(バービル県 / バビロン)
出生地
アケメネス朝(ペルシア)
出典
世界地図
イラク共和国(バービル県)

伝記

ダレイオス2世は、アケメネス朝ペルシア帝国の王で、紀元前423年頃から紀元前404年まで在位した。本名はオコスといい、即位に際してダレイオスの名を名乗った。ギリシアの著述家たちは、彼に「庶子王」を意味するノトスの添え名を付けている。父はアルタクセルクセス1世、母はバビロニア出身の側室コスマルテュデネである。即位前は総督を務め、異母姉妹のパリュサティスと結婚した。

紀元前424年の暮れ頃に父王が亡くなると、王位をめぐって異母兄弟の間で争いが起こった。バビロニアの粘土板文書は、代替わりが紀元前424年12月から翌年2月の間だったことを示す。ギリシアやローマの歴史家、とりわけクテシアスによれば、クセルクセス2世が短期間で暗殺され、後を継いだソグディアノスをオコスが交渉の場で捕らえて処刑し、王位を手にしたという。ダレイオスの名と承認はバビロンの支持者から得たとされ、最初の粘土板文書は紀元前423年1月10日付である。

治世は、各地の反乱に悩まされ続けた。同じ母をもつ兄弟のアルシテスは、父王の時代に反乱を起こした総督の息子アルテュピオスとともにシリア方面で挙兵したが、鎮圧され、二人とも処刑されたと伝わる。リュディア総督ピッスートネスも謀反を起こし、王が送ったティッサフェルネスによって降伏させられた。その子アモルゲスはアテナイの資金で雇った傭兵とともにイアソスで抵抗を続け、後にティッサフェルネスとスパルタ艦隊によって紀元前412年に破られた。このほかクセノフォンやシケリアのディオドロスは、メディア人などとの小さな衝突も記している。紀元前410年に始まったエジプトの反乱は鎮められず、王の死後にエジプトはペルシアから独立した。

対外関係では、アテナイの力が保たれている間、王はギリシアの事情に介入しなかったとされる。しかし紀元前413年にアテナイがシュラクサイで大敗すると、ティッサフェルネスやファルナバゾスといった総督、そして息子の小キュロスの助けを得て、スパルタと同盟を結んだ。こうして小アジアのギリシア諸都市を取り戻す道が開かれた。

家庭や宮廷では、王妃パリュサティスに強く頼っていたようで、その残酷さが宮廷の腐敗を招いたとされる。クテシアスの抜粋には、後宮の陰謀に王が芳しくない役割で関わった話も残る。アルメニア総督ヒュダルネスの一族との婚姻も結ばれ、長男アルサケスはその娘スタテイラと、王の娘アメストリスはヒュダルネスの息子テリテュクメスと結ばれた。クテシアスによれば、後に総督となったテリテュクメスは王女との結婚を疎み、アメストリスの殺害を企てた。しかし反乱が広がる前に、アルメニアの貴族ウディアステスが軍を集めて討ち、テリテュクメスは戦死したという。

在位19年目の紀元前404年、ダレイオス2世はバビロンで亡くなった。なお、エレファンティネのパピルスには、当時のユダヤ人大祭司ヨハナンと同時代の王として彼の名が現れる。墓はナクシェ・ロスタムにある。後を継いだのは長男アルサケスで、アルタクセルクセス2世として即位した。また、息子の一人はダレイオス3世の祖父とされる。スーサでは新たな建築も行っている。

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