伝記
クレアルコスは、スパルタの軍人である。生年は不明だが、紀元前450年ごろの生まれとされ、紀元前401年に没した。ラムピアスの子ともいわれ、ペロポネソス戦争の後半から、小キュロスに仕えたギリシア人傭兵の指揮官としての最期まで、軍人として生きた。
紀元前412年、スパルタ艦隊とともにヘレスポントスへ送られ、ビュザンティオンを押さえて同市のプロクセノスとなった。ペルシアのフリュギア総督ファルナバゾス2世とも結び、アテナイに対抗した。紀元前410年のキュジコスの戦いではスパルタの陸上部隊を指揮したが、ペルシアの同盟軍とともに敗れた。その後、アテナイによる海上封鎖を受けたビュザンティオンへ三段櫂船15隻を率いて入ろうとし、3隻を失いながらも到達した。市が包囲されると、資金と援軍を求めて小アジアのファルナバゾスのもとへ向かったが、兵に食糧を割り当てる厳しいやり方で不評を買っていた。留守のあいだに市門はアルキビアデス率いるアテナイ軍に開かれ、帰国後に裁判にかけられて罰金を科された。アルギヌサイの海戦にも居合わせ、スパルタの司令官カリクラティダスは、自分が死んだらクレアルコスが後任にふさわしいと述べたという。
アテナイの最終的な敗北のあと、クレアルコスはスパルタの監督官たちに願い出て、内紛の続くビュザンティオンを収め、トラキア人の攻撃から同市と近隣のギリシア人植民市を守るための軍勢を与えられた。しかし市民が彼を僭主と見ていると知った監督官たちは、使者を送って呼び戻そうとした。使者はコリントス地峡で追いついたが、クレアルコスは無視してビュザンティオンへ進み、ただちに追放者と宣告された。トラキア諸部族とは有利に戦い、救われた諸市から非公式の支持を得たが、スパルタの好意が戻ることはなかった。市を掌握すると、高官たちの処刑を命じ、富裕な市民の一部を絞殺して財産を奪ったとされる。スパルタは退去を命じ、従わないと見るや軍を送って追い払った。紀元前403年には本国の命令に従わなかったことで死刑を宣告され、小アジア総督の小キュロスのもとへ亡命したとされる。小キュロスは、ギリシア人の精鋭が小アジアの近くにいると知り、兄であるペルシア王アルタクセルクセス2世から王位を奪う助力を求める使者を、金貨1万ダレイコスとともに送った。クレアルコスが応じたのは金のためではなく、スパルタの監督官から追放者とされた以上、いずれ同胞と対決せねばならないと考えたからだという。彼はビュザンティオンの守備隊をメガラのヘリクソスに任せて出発した。
紀元前401年のクナクサの戦いで、クレアルコスはペロポネソス勢の部隊を率い、小キュロス軍の右翼をなした。小キュロスは敵の中央を破るため最強のギリシア人傭兵をそこへ向けたかったようだが、クレアルコスは敵の包囲を警戒し、右翼のユーフラテス川に接する位置に部隊を置いた。敵中央への攻撃を命じられていたのに前進して敵の左翼を押し返したともいわれ、その結果、両軍が互いを見渡せる距離に迫っても小キュロス軍の左翼は準備が整わなかったとされる。小キュロスは後方で戦列が組まれるのを見ていたが、止めなかったようである。小キュロスは敵の中央に突撃して戦死した。
小キュロスの死後、クレアルコスはギリシア人傭兵全体の指揮を引き継ぎ、ペルシア側と交渉しながら、ティグリス川方面への後退を進めた。しかしリュディアとイオニアの総督で王の将軍でもあるティッサフェルネスの宴に招かれると、一行とともに捕えられてバビロンの王宮へ送られ、王妃スタテイラの命により処刑された。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
- カッサンダネ (紀元前536)
- Kidinnu (紀元前329)
- Seleucus of Seleucia (紀元前150)
- 小キュロス (紀元前401年没)
- バビロニアのディオゲネス (紀元前149)