伝記
メレアグロスは、アレクサンドロス3世(大王)に仕えたマケドニアの将軍である。ネオプトレモスの子で、生年は不明だが紀元前360年ごろとする説があり、紀元前323年に没した。出自はよく分かっておらず、マケドニアの中間層の出身で、有力貴族との結びつきは強くなかったと推測されている。大王が兵役を解いた古参兵に含まれていないことと、紀元前334年に結婚したことから、比較的若い将軍だったと考えられている。
最初に名が現れるのは、紀元前335年のトラキア遠征で、ゲタイ人との戦いの後、戦利品を陣営に運ぶ任務である。翌年からの東征では、ファランクス(重装歩兵の密集隊)の一隊を指揮し、グラニコス川、イッソス、ガウガメラといった主要な会戦に、その地位で参加した。紀元前334年にはハリカルナッソスの攻囲にも加わった。紀元前333年の冬には、新婚の兵士たちを妻のもとで過ごさせるため本国へ送る部隊を、コイノスやプトレマイオスとともに指揮した。メレアグロス自身も結婚したばかりだった。翌春、ゴルディオンで遠征軍に再び合流している。紀元前331年初めのペルシア門の戦いでは、クラテロスとともに、ペルシスの太守アリオバルザネスの注意を引きつける役を務めた。
その後、ソグディアナとバクトリアでは反乱の鎮圧に加わり、紀元前328年の春には、ポリュペルコン、アッタロス、ゴルギアスらとバクトラに残って、抵抗を続けるスピタメネスに備えた。インドでは、ペルディッカスの指揮下でペウケラオティスの地方へ分遣され、ヒュダスペス河畔の戦いでは、アッタロスやゴルギアスとともに、渡河してゾウの突撃を食い止める任務を与えられた。紀元前325年7月には、帰国を望む兵を率いるクラテロスの補佐を務め、軍の半分、ゾウ、古参兵とともにアラコシアとドランギアナを経て戻った。この帰路は兵にとって過酷で、損害も大きかった。しかし、こうした働きにもかかわらず、大王が彼をより上の地位や信頼のおける地位に引き上げた形跡はなく、重要な独立指揮権を持って戦う姿も見られない。
紀元前323年5月、メレアグロスはテッサリアのラリサの人メディオスが開いた、大王最後の宴の出席者に数えられている。のちの後継者戦争のころには、大王の毒殺を企てたという噂が流されたが、この噂は疑わしいとされる。大王の死後、後継を決める会議で、メレアグロスは実権を握ろうとしてペルディッカスと対立した。ユスティヌスによれば、アリダイオスかバルシネの子ヘラクレスを王に選ぶか、ロクサネの子の誕生を待つかを、諸将に最初に提案したのが彼だった。クルティウスは、ロクサネの生まれていない子を王にすべきだと主張したペルディッカスに、摂政の座を狙う野心をののしった人物として描く。アリダイオスを推す歩兵が騒ぎを起こしたため、会議は中止された。メレアグロスは歩兵をなだめに送られたが、かえって暴徒の側につき、その主張を支持した。
ほとんどの将軍と騎兵はペルディッカスについたため、メレアグロスはアリダイオスを抱き込んでペルディッカスを処刑しようとしたが、裏をかかれて失敗した。やがて両者は和解し、エウメネスが仲裁したともされる。アリダイオスと生まれていないロクサネの子が共同で王位につき、メレアグロスはペルディッカスと共同の摂政になると決まった。だが二人の友好が続くはずはなく、翌日、ペルディッカスは王の名のもとに、暴動の首謀者300人を処刑した。メレアグロス自身は処刑の対象にならなかったが、身の危険を感じて神殿に逃れたものの、そこで殺された。
同じ年に亡くなった人物
- スタテイラ (紀元前323年没)
- マケドニアのハルパロス (紀元前323年没)
- アテナイのリュクルゴス (紀元前 323年)
- ドリュペティス (紀元前323年没)
- シシュガンビス (紀元前323年没)