伝記
クレオフォンは、ペロポネソス戦争のさなかに大きな影響力をもったアテナイの政治家であり、民衆指導者(デマゴーゴス)である。徹底した民主派で、寡頭派とは激しく対立した。紀元前405年、あるいは404年に処刑されたとされる。
出自はアテナイの伝統的な有力者層とは異なっていた。父はアテナイ市民であることが知られ、母はトラキア人だったと推測されている。竪琴(リラ)を作る職人だったともいい、アンドキデスは彼を竪琴製作者だと語り、アイリアノスは若いころの生活の貧しさを指摘している。そのため、貴族出身者が多かった当時の指導者のなかで、彼は異色の存在だった。喜劇詩人プラトンは同名の喜劇を書き、アリストパネスは『蛙』で彼を笑いものにしたが、どちらも彼のトラキア系の出自と訛りをからかった。プラトンは生まれの低さも嘲った。なお、プラトンの喜劇は現在は失われている。
クレオフォンが政界に現れたのは、紀元前411年の最初の寡頭派革命の直後とされる。彼は紀元前410〜409年に、市民へ国庫から一日2オボロスを支給するディオベリア(二オボロス給付)を導入した。この制度は彼の提案によって始まったという。アリストテレスは、クレオンと並べて彼を、民衆の堕落を最も促した人物の一人に挙げている。また、寡頭派のクリティアスとの応酬は、アリストテレスの『弁論術』に言及されるほどだった。
彼は和平に一貫して反対した。スパルタが和平を持ちかけるたびに、市民を動かして退けさせたのは、記録上では三度にのぼる。一度目は紀元前410年のキュジコスでのアテナイの勝利のあと、二度目は紀元前406年のアルギヌサイでの勝利のあと、三度目は紀元前405年、アイゴスポタモイでスパルタ海軍が決定的な勝利を収めたあとである。
三度目の拒否ののち、リュサンドロスがアテナイを包囲すると、世論は民主派に不利に傾いた。寡頭派はこの機に政敵を除こうとした。一派のサテュロスが、クレオフォンを軍務怠慢で告発し、彼は逮捕された。ただ、この罪状で有罪にできるかは確実でなかった。そこで法の公開を担当する役人ニコマコスが、買収あるいは党派心から動かされ、寡頭派が優勢な評議会が、くじで選ばれた陪審員の審理を監督できるとする「法」を持ち出した。寡頭派はこの監督の権限を使って陪審員を操り、クレオフォンに有罪と死刑の判決を下させた。
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