HISTORICAL PERSON · 716年没

睿宗 (唐)

唐の第5代・第8代皇帝。母武則天の傀儡として即位・廃位を経験し、中宗死後は息子玄宗と共に韋皇后一派を排除して再び即位、その後まもなく玄宗に譲位した。

生涯
716年没
死亡地
金(陝西省 / 長安)
出生地
斉 (黄巣)(長安)
出典
世界地図
金(陝西省)

伝記

睿宗(李旦)は、唐の第5代および第8代の皇帝である。高宗の八男で、中宗の同母弟にあたる。662年に生まれ、716年に55歳で崩御した。母は高宗の第二の皇后で、のちの武則天である。生涯のうちには李旭輪、李輪、武輪、武旦などとも名乗った。

生まれた年のうちに殷王に封じられ、その後も豫王、冀王、相王などと封号と名を改めた。664年には名目上、冀州の長官と単于都護府の長官を兼ねた。成長すると、謙虚さ、兄弟への愛情、書の才で知られたといわれる。684年、兄の中宗が母の武則天によって廃位されると、帝位に即いた。しかしそれは武則天による傀儡の統治で、実権は全くなく、勅令に名前が載ることさえなかった。私邸の中ですら自由に動けなかったとされ、唐は名ばかりの存在となって、武則天が6年以上にわたり事実上の皇帝として国を治めた。690年、武則天が自ら皇帝に即位して周を建てると、李旦は帝位を譲り、廃位された。以後は皇嗣という異例の称号で皇太子の位置に退けられた。

その後、武則天の甥の武承嗣や武三思が自分たちのどちらかを後継者にしようと働きかけたが、武則天は退けた。698年10月、外国の侵攻と国内の不満に直面した武則天は、宰相の狄仁傑の提案を受け入れ、流されていた李顕(中宗)を都の洛陽に呼び戻した。まもなく李旦は皇太子の地位を兄に譲ることを申し出て、李顕が皇太子となった。705年、政変で武則天が退けられて中宗が復位し、唐が再興されると、李旦は安国相王に封じられた。710年、中宗が韋皇后に毒殺されたとされ、韋皇后は中宗の末子の李重茂を殤帝として立てた。その約2週間後、李旦の妹の太平公主と、李旦の三男の李隆基(のちの玄宗)が政変を起こして韋皇后を倒した。太平公主、李隆基、その兄の宋王李成器らは李旦を説得し、李旦は殤帝を廃して再び帝位に就いた。長男でなかった李隆基は、功績により皇太子に立てられた。

しかし、絶大な権力と皇帝の信頼を持つ太平公主と皇太子の李隆基のあいだには、まもなく緊張が生じた。712年9月、睿宗は天象が皇帝の交代を求めていると考えて玄宗に譲位し、太上皇帝を称した。ただし、太平公主の提案により、睿宗は実際の最高権力を握り続けたとされる。713年、太平公主が政変を企てていると疑った玄宗が先手を打ち、その一派を殺して、太平公主を自殺に追い込んだ。この後、睿宗は皇帝の権限をすべて玄宗に譲り、政治の表舞台から退いた。716年に崩御した。

家族については次のように伝わる。正室は劉徳威の孫にあたる劉延景の娘の劉皇后で、長男は寧王の李憲(李成器)、長女は寿昌公主である。側室の竇徳妃は竇孝諶の娘で、三男の李隆基(玄宗)のほか、八女の金仙公主、九女の玉真公主を産んだ。ほかに豆盧貴妃、崔貴妃、王徳妃、王芳媚、柳妃といった側室がおり、五男の恵宣太子李業、四男の恵文太子李範、次男の恵荘太子李撝などの子女がいた。李隆基と李撝は豆盧貴妃を養母としたとされる。豆盧貴妃は662年から740年の生涯で、結婚生活の破綻により洛陽に葬られたという。唐孺人(662年から692年)は皇子時代の側妃で、唐観の娘だった。柳妃は柳奭の孫娘で、廃された王皇后のいとこにあたる。ほかに母の不明な子女として、六男の随王李隆悌、次女の安興公主、薛国公主、霍国公主が挙げられている。睿宗は『則天武后』(1995年)や2011年、2012年、2013年、2015年の作品など、中国のテレビドラマにも登場している。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物