伝記
オスレッド1世は、697年ごろに生まれ716年に没したノーサンブリア王である。父はノーサンブリア王アルドフリスで、アルドフリスの妻として知られるのはクスブルフだけだが、オスレッドが彼女の子だったかどうかは確かではない。705年の2月か3月ごろから716年に亡くなるまで王位にあったとされ、没年の年齢は19歳前後と伝えられる。
父が704年に世を去ったとき、オスレッドはまだ幼く、王位をすぐに継ぐことができなかった。代わって王位を奪ったのが、出自のはっきりしないエドウルフ1世である。しかしエドウルフの治世は数か月で終わり、有力な伯爵ベルトフリスらの支持のもとでオスレッドが幼い王として迎えられた。このとき即位したオスレッドは8歳ほどだったとされ、アングロ・サクソンの歴史で子どもが王位を継いだのはこれが初めてだったという。
幼王の時代、政治の実権を握ったのは有力な司教ウィルフリッドであった。オスレッドはウィルフリッドの養子となり、その庇護を受けた。ウィルフリッドは706年にカンタベリー大司教ベルトワルドからリポンの修道院長に任じられ、ヘクサムの司教区も与えられたが、これはオスレッドを支持したことへの見返りだったともいわれる。叔母であるウィットビーのエルフレダや、ベルトフリスとその支持者もオスレッドを支え、王位をめぐる争いはひとまず収まった。709年にウィルフリッドが没しても大きな混乱は起きなかったようで、この時期のノーサンブリアには、まだ一定の安定と連続性があったと考えられている。
711年には、伯爵ベルトフリスがピクト人に大勝を収めた。上部フォース川の周辺での戦いで、ほかにはオスレッドの治世に目立った政治的事件はない。一方、同時代の教会関係の記述は、成長したオスレッドを放埒で、修道女を誘惑する若者として描く。ベーダは彼を新しいヨシヤ王にたとえて好意的に語ったが、9世紀初めにエセルウルフが著した詩『修道院長たちについて』は、行動も言葉も力強く武勇にすぐれ自らの強さを恃む王としつつ、軽率で愚かで欲望を抑えられず、多くの政敵を修道院に押し込めた暴君であるとも記している。治世は経済と文化の衰退の始まりとして記憶され、貴族が若い王の弱さにつけ込んで私腹を肥やしたともいわれる。
オスレッドは715年か716年に成年に達したが、その直後に命を落とした。死のありさまははっきりしない。アングロ・サクソン年代記は「国境の南」で殺されたと記し、歴史家のロラソンとハイアムはこの境をピクト人との南の境界と見て、ピクト人に討たれたと推測している。年代記が戦いでの死とするのに対し、マームズベリのウィリアムは謎めいた陰謀の末の暗殺を語る。後継の王位にはコエンレッドが就いた。
同じ年に亡くなった人物
- アルパイダ (716年(推定))
- ムーサー・ビン=ヌサイル (716年)
- テオド2世 (716年没)
- 睿宗 (唐) (716年没)
- 阿史那默啜 (716年没)
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