伝記
阿史那默啜は、東突厥第二可汗国の可汗である。阿史那骨咄禄の弟で、オルホン碑文のカプガン・カガンにあたる。716年7月22日に没した。トルコ語名はボグ・チョルとされ、「カプガン」は「征服する」を意味する動詞に由来するという。664年ごろに生まれ、681年には兄の骨咄禄が唐の支配に対して起こした反乱を助け、東突厥可汗国の復興に貢献したとされる。
兄の骨咄禄が690年から692年の天授の初めに病死すると、その子の默棘連はまだ幼かったため、默啜が可汗位を簒奪して自ら位に就いた。唐ではこれを簒奪と見た。693年に霊州を襲って人や役人を殺し、武則天は薛懐義らを派遣して討たせたが、突厥軍には遭遇できずに帰還した。すると默啜は使者を送って朝貢し、武則天は喜んで左衛大将軍を授け、帰国公に封じた。翌694年にも和を請い、遷善可汗の称号を授かっている。693年から706年のあいだに、その軍は黄河を6度渡って華北に深く侵入し、唐の軍は有効に抵抗できなかったとも伝わる。
696年、契丹の首領の李尽忠と孫万栄が反乱を起こすと、默啜は契丹の討伐を願い出て、これを大破した。697年夏にも契丹の根拠地を再び攻め、孫万栄は逃走中に殺されて契丹の脅威は終わったという。これによって東突厥は次第に強盛となり、辺境を固めた冬には北方へ勢力を広げ、イェニセイ・キルギスを従えてその可汗を殺したと伝わる。武則天は默啜を特進・頡跌伊施大単于・立功報国可汗に立てた。698年、默啜は武則天の子となること、娘を嫁がせること、和親を結ぶことなどを請い、武則天が初め許さなかったため激怒した。周の朝廷は突厥の勢いを恐れてすべての要求をのんだが、嫁取りのために送られてきたのが唐の李氏ではなく周の武氏の武延秀だったため、默啜は異を唱えた。そして唐王朝への復帰を名目に武延秀を拘束し、閻知微を可汗に封じ、1万騎を率いて南下した。周は計45万の兵で防いだが各所で敗れ、怒った武則天は默啜を斬啜と改名して呼んだ。それでも勢いは止まらず、同年9月に廬陵王李顕が皇太子とされたことを聞いて、ようやく軍を引いた。
699年には、弟の咄悉匐と甥の默矩を左右の察に、子の匐倶を小可汗に任じ、十姓(西突厥)の兵馬4万余人を統括させた。以後、東突厥は連年辺境を侵した。703年には娘を皇太子の子に嫁がせることを請い、706年には霊州鳴沙県を襲って官軍の死者6千余人を出させ、隴右の馬1万余匹を奪った。707年に中宗は請婚を絶ち、默啜を斬った者を国王に封じると布告した。708年には西突厥の首領の突騎施娑葛が叛いて自立し、可汗となった。711年に睿宗の時代になると、默啜は再び和親を請い、宋王李成器の娘を金山公主として娶ることが許された。頡利可汗以来、最も強盛になったとされるが、老齢となり、部落の多くは次第に逃げ散っていった。
714年には、子の移涅可汗らに北庭都護府を包囲させたが、郭虔瓘に守り抜かれ、弟の同娥特勤は城下で斬られた。715年には、配下の十姓部落などが1万余帳で唐に亡命した。同じ年の秋には九姓鉄勒の思結部と戦ったが、首領の阿布思は唐に亡命した。716年6月、抜曳固部を北に討って独楽河で大破したが、警戒を緩めていたところを、同部の脱走兵の頡質略に柳林中で遭遇して斬られた。首は唐の都へ送られた。その後、兄骨咄禄の子の闕特勤が旧部をまとめ、默啜の子の小可汗や諸弟を殺し、兄の默棘連を毘伽可汗に立てた。
同じ年に亡くなった人物
- Irmina of Oeren (716年)
- Ceolred of Mercia (716年)
- テオド2世 (716年没)
- エゼルレッド (716年(推定))
- Osred I (716年没)